「天台宗」の版間の差分

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慧文は、[[龍樹]]による『[[大智度論]]』と『[[中論]]』に依って「[[一心三観]]」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智顗に継承された。
 
智顗は、[[鳩摩羅什]]訳の『[[法華経]]』『[[摩訶般若波羅蜜経]]』『大智度論』、そして『[[涅槃経]]』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた[[五時八教]]という[[教相判釈]](経典成立論)を説き、[[止観]]によって仏となることを説いた学僧である。
 
しかしながら、[[鳩摩羅什]]の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
 
[[天台山]]に宗派の礎ができた後、[[涅槃宗]]を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の『[[法華玄義]]』『[[法華文句]]』『[[摩訶止観]]』の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖[[章安灌頂]]([[561年]]-[[632年]])である。灌頂の弟子に[[智威]](?-[[680年]])があり、その弟子に[[慧威]]([[634年]]-[[713年]])が出て、その後に[[左渓玄朗]]([[672年]]-[[753年]])が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。