「マティアス (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1578年]]、[[ネーデルラント17州]]に統治者として招聘された。[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]はそれを認めなかったが、マティアスは[[1581年]]にネーデルラントが独立宣言を発するまで留まり続けた。この3年間の統治において、マティアスは宗教の和平を定め、それが[[ユトレヒト同盟]]の協定に[[信教の自由]]として表れた。
 
[[1593年]]、兄の神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]によって[[オーストリア総督]]に任命され、そこで[[ウィーン司教]]であり後に自身の右腕となる[[メルキオル・クレスル]]と兄に対抗するための密約を交わした。結果、[[1605年]]に病気の兄に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の宗教的な反逆者と通交することを許可させた。その許可により、翌[[1606年]]に[[ウィーンの平和]]が起こり、ハンガリー王国の人々の[[信教の自由]]が保障された。
 
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神聖ローマ皇帝に就任して以降、マティアスの政策は帝国内の[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]の融和を進めることを望んでいたメルキオル・クレスルに支配されていた。もっとも、マティアス自身、ボヘミアに新教の教会を設立することを禁止しているし、この融和政策は、妥協に反対的なハプスブルクの[[カトリック教会|カトリック]]教徒に反対された。特に弟の[[マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン3世]]大公の反対は著しく、カトリック強硬派の従弟・フェルディナント大公(後の[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]])の続投を望んだ。[[1617年]]、フェルディナント2世がボヘミアの新王となると、カトリック・プロテスタント両派の対立は頂点に達した。[[1618年]]にボヘミアのプロテスタントの反乱が始まったことにより([[プラハ窓外投擲事件]])、マティアスはマクシミリアン3世を拘束し、融和政策を変更した。しかし、マティアスは病床につき、マクシミリアン3世達が自分の地位を奪うことを防ぐことができなかった。フェルディナントは既にボヘミア王になっていたが、マティアスは帝位にとどまった。
 
結局マティアスが死の床につく頃には新旧両派の対立は回避することが出来ず、最後にして最大の[[宗教戦争]]、[[三十年戦争]]が勃発してしまうのである。マティアスは1619年に[[ウィーン]]で亡くなったが、皇后[[アンナ・フォン・ティロル]]との間に子供がなかったため、フェルディナントが帝位を継いだ。
 
後に[[シェーンブルン宮殿]]が建造された場所の名付け親はマティアスだとされている。
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| rowspan="2" style="width: 33%; text-align: center; border-left: solid 1px #ccc; border-bottom: solid 1px #ccc" | '''次代:'''<br/>[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]
|-
| style="text-align: center; border-bottom: solid 1px #ccc" | '''[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]'''<br/>1611年 - 16171619
|-
| style="text-align: center; border-right: solid 1px #ccc" | '''先代:'''<br/>[[フェルディナント2世 (オーストリア大公)|大公フェルディナント2世]]