「西園寺公広」の版間の差分

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[[天正]]12年([[1584年]])、[[長宗我部元親]]の猛攻を受けて降伏し、さらに翌天正13年([[1585年]])、[[四国]]平定を図る[[豊臣秀吉]]配下の[[小早川隆景]]に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の隆景に属し[[九州平定]]に配下として従軍するなどしたが、天正15年([[1587年]])、新たに宇和の領主となった秀吉の家臣・[[戸田勝隆]]に戸田邸で謀殺された。[[享年]]51。これにより大名としての[[西園寺家]]は完全に滅亡した。
 
辞世のは「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」
 
== 関連項目 ==