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[[文保]]2年([[1318年]])に即位した[[後醍醐天皇]]の親政に参加し、[[蔵人]]となる。後醍醐の[[朱子学]](宋学)志向に影響を受け、[[鎌倉幕府]]討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り反幕府勢力を募るが[[六波羅探題]]に察知され、[[正中 (日本)|正中]]元年([[1324年]])の[[正中の変]]で[[日野資朝]]らと逮捕されるが処罰は逃れる。京都へ戻るが、[[元徳]]3年/[[元弘]]元年([[1331年]])に発覚した2度めの討幕計画である[[元弘の乱]]で再び捕らえられ、[[得宗]][[被官]]諏訪左衛門尉に預けられたあと[[鎌倉]]の葛原岡で処刑された。
 
辞世のは「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」
 
[[明治維新]]後、南朝([[吉野朝廷]])が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、[[1887年]]([[明治]]20年)には俊基を主祭神とする[[葛原岡神社]]が[[神奈川県]][[鎌倉市]]梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。