「新門辰五郎」の版間の差分

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[[上野]][[大慈院]][[別当]]・[[覚王院義観]]の仲介で一橋慶喜([[徳川慶喜]])と知り合ったと伝えられ、娘の[[お芳|芳]]は慶喜の妾となっている。[[元治]]元年([[1864年]])に[[禁裏御守衛総督]]に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して[[二条城]]の警備などを行う。[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]で江戸幕府が消滅し、[[鳥羽・伏見の戦い]]の後に慶喜が[[大坂]]から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大[[馬印]]を取り戻し<ref>船戸安之『勝海舟』282頁</ref>東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野[[寛永寺]]の寺の警護に当たっている。[[上野戦争]]での伽藍の防火、慶喜が水戸([[茨城県]])、[[駿府]](現[[静岡市]][[葵区]])と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに駿府に住み駿河国清水の侠客である[[清水次郎長]]とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。[[明治]]になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。
 
[[辞世]]のは、「'''思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくり[[ぼぼ]]に どぶろくの味'''」。
 
== 人物 ==