「大内義長」の版間の差分

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こうして後背の安全を得た[[毛利氏]]は[[防長経略]]で弘治3年([[1557年]])3月、[[山口市|山口]]へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、結局[[高嶺城]]を放棄し、重臣・[[内藤隆世]]の長門[[勝山城 (長門国)|且山城]]へ敗走した。しかしすぐに毛利軍の[[福原貞俊]]により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し[[自刃]]した。義長も長門長福院(現在の[[功山寺]])に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、[[陶鶴寿丸]](晴賢の末子とされる)らと共に4月3日に自害した<ref name="大内義隆p184"/>。[[享年]]26。
 
辞世のは「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。
 
義長の死により西国の名門大内氏は滅亡したが、後に[[大内輝弘]]が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている([[大内輝弘の乱]])。また、早くから分かれた傍流の[[山口氏]]が[[江戸時代]]に大名として存続した。