「筒井定慶」の版間の差分

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筒井順慶の没後は[[豊臣秀長]]に仕えたが、 秀長が病で死去し、その子の[[豊臣秀保|秀保]]も急死し、大和羽柴家が断絶した後は[[徳川家康]]についた。筒井順慶の死後に筒井家を継いでいた従兄の[[筒井定次]]が慶長13年([[1608年]])に改易となると、家康の協力もあり筒井家を[[相続]]、[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]1万石を領し、名を筒井定慶に改めた。
 
慶長20年(1615年)4月には、大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の[[大野治房]]軍が来襲、大和郡山城を包囲し城下町に放火した([[郡山城 (大和国)#郡山城の戦い|郡山城の戦い]])。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て[[城]]を放棄、福住に落ち延びた。のちに[[逃亡]]を恥じて[[切腹]]したと伝わるが、[[自害]]と称して福住村に[[逼塞]]したとも伝えられる。<ref>籔・223項</ref>辞世のは「'''世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな'''」。大坂夏の陣での不自然なほどの敗退ぶりは、豊臣方の出方を見るため、家康の指示によってあらかじめ仕組まれた作戦であったとする説がある。[[伝承]]では、定慶かその子が隠棲し、その後、[[尾張国]]に行ったと言われるが、確証は無い。
 
定慶の死(または逼塞隠棲)により、大名としての筒井氏は[[断絶]]した。だが弟・慶之(順斎)の[[子孫]]が1,000石の[[旗本]]となった。[[幕末]]に[[日露和親条約]]の交渉を行った[[筒井政憲]]はその[[末裔]]であるという(養子のため直接の血の繋がりは無い)。筒井順慶の養子については諸説があって一定せず、福住氏の[[系図]]も混乱して実態がよく分からない。