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[[13世紀]]後半の[[鎌倉時代]]には、[[浄土真宗]]が伝えられた<ref>『新編安城市史1 原始・古代・中世』 378頁</ref>。[[矢作川]]流域には、[[円善]]の嫡子や弟子による和田門徒と呼ばれる集団が形成され、各地に道場を創設した<ref>『新編安城市史1 原始・古代・中世』 388頁</ref>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[蓮如]]の布教により[[本願寺派]]に改宗する寺院が急増し、信徒を増やした<ref>『新編安城市史1 原始・古代・中世』 472頁</ref>。
 
[[室町時代]]中期の[[1440年]]には、[[安祥城]]が[[畠山氏|畠山一族]]の[[和田親平]]によって築城されたが、[[1471年]]に[[松平信光]]が攻め取り、三男・[[松平親忠|親忠]]を置いた。親忠と[[松平長親|長親]]・[[松平信忠|信忠]]の安祥松平家(徳川本家)3代に渡る経営により、加茂郡南部・額田郡・碧海郡・幡豆郡北部を支配権とする体制を確立した。安祥松平家時代の家臣は、[[安祥譜代]]と呼ばれ徳川最古参の家臣とされている。また、長親の子は[[福釜松平家|福釜]]・[[桜井松平家|桜井]]・[[藤井松平家|藤井]]といった市域の村々を領した。この頃、松平親忠に臣従した玄海、大行日吉法印によって[[三河萬歳|三河万歳]]が創作・伝承されている。[[1524年]]には[[松平清康|清康]]は、安祥城から[[山中城 (三河国)|山中城]]そして[[岡崎城]]へ居城を移す<ref>『新編安城市史1 原始・古代・中世』 551-563頁。但し、「徳川実紀」(内藤耻叟 校訂 『徳川実紀』 徳川実紀出版事務所、1896年、〔第1冊〕第一巻、10 - 11頁)では、松平清康が岡崎城を受け取った後も安祥を本拠にしていたとする記述がある。</ref>。安祥城は、[[1540年]]に[[今川氏|今川]]・[[松平氏|松平]]連合軍と織田氏との争奪戦([[安城合戦|安祥合戦]])が繰り広げられた結果、織田氏の手に落城し、織田氏の三河進出の前線根拠地となったが、[[1549年]]に再び今川・松平によって奪取されている。そして、織田氏と徳川氏の間で[[清洲同盟]]が結ばれた後の[[1562年]]に廃城となったとされる。
[[File:本證寺 (安城市)02.jpg|thumb|本證寺]]
[[1563年]]には、三河における浄土真宗3か寺のひとつだった[[本證寺 (安城市)|本證寺]]が[[三河一向一揆]]の拠点となり[[徳川家康]]と戦い、家康を苦しめた。
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[[19世紀]]には、和泉村の豪農・[[都築弥厚]]によって、安城が原に矢作川から用水路を引いて土地を開墾する計画が立てられ幕府の許可を得て測量まで着手されたが、村々・領主の反対や都築の病死により頓挫した<ref>『安城市史』 616頁</ref>。同時期には、[[鹿乗川]]延長工事が竣工した。また、五箇野ヶ原の一部が検地されて石井新田が開発された。
 
==== 近代 ====
[[1869年]]の[[版籍奉還]]により、[[重原藩]]や[[静岡藩]]が成立した。[[廃藩置県]]を経て[[1871年]]に[[額田県]]が成立し、市域の村々が初めて同じ支配下に入った。