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'''脩子内親王'''(しゅうしないしんのう、[[長徳]]2年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]([[997年]][[1月27日]])<ref>誕生日を『栄花物語』は12月20日、栄花を除く諸記録は全て12月16日とする。諸記録に見える五十日の祝は長徳3年2月9日で、逆算すれば前年12月20日が誕生の日にあたるため、やや疑問が残る。</ref> - [[永承]]4年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]([[1049年]][[3月13日]]))は、第66代[[一条天皇]]の第1皇女で、母は[[皇后]][[藤原定子]]。『[[大日本史]]』では「'''修子'''」と表記。名は「ながこ」とも読む<ref>『平安時代史事典』</ref>。同母弟妹に[[敦康親王]]、[[媄子内親王]]。
 
早くに母を亡くしたが、父の意向で宮中で育った。鍾愛の皇女であったことから、父は脩子を[[裳着|著裳]]とともに三品に直叙、[[寛弘]]4年([[1007年]])1月、12歳の時には、一品に叙すとともに[[准三宮]]の待遇を与え、本封のほか1,000戸を加えた。このときの詔書は『大日本史』に収録されている。父の死後、[[藤原道長|道長]][[藤原彰子|彰子]]の庇護のもとにいるのを潔しとせず、両人の不興を承知のうえで叔父[[藤原隆家|隆家]]の屋敷へ移った。その後、[[長和]]2年([[1013年]])1月27日に三条宮に遷御したことが『[[小右記]]』に見える。
 
彰子のもとに引き取られた同母弟の敦康親王とは別々に暮らしていたが『[[栄花物語]]』は敦康が20歳の若さで死去した際には非常に嘆き悲しんだという逸話を伝える。たいへん信心深く、[[治安 (日本)|治安]]4年(1024年)3月に落飾、入道一品宮などと称された。高貴な皇女の多くがそうであったように、終生未婚であったが、[[藤原頼宗]]の次女[[藤原延子 (藤原頼宗女)|延子]](母は[[藤原伊周|伊周]]女で脩子内親王の従姉妹)を養女とし、延子が[[後朱雀天皇]]に入内した際には養母として付き添った。『栄花物語』によれば脩子は書に長じ、またそのそばには琴や琵琶を能く弾く人々が多くはべっていたため、延子も箏の琴に優れていたという。永承4年に死去した際、葬送の日がちょうど[[釈迦]]入滅の日であったため、時人は「'''成仏間違いなし'''」と称したと『[[後拾遺和歌集]]』は伝えている。
 
脩子は外戚の零落後に生まれ、同母弟の敦康親王同様、後見人に恵まれなかったが、父一条天皇は長女である内親王を非常に可愛がり、また天皇の近臣たちもそれを熟知していたために、彼女のためによく奉仕したことが『[[権記]]』『[[小右記]]』などに散見する。また彼女は[[後一条天皇|後一条]]・[[後朱雀天皇|後朱雀]]の両天皇(ともに彰子所生)にとって、異母姉とはいえただひとりの姉であったため、生涯を通して朝廷でそれなりに尊重された。
 
なお、彼女は『[[枕草子]]』の伝来に関係したらしい(枕草子能因本奥書)。また、歌人[[相模 (歌人)|相模]]が仕えたことでも知られる。
 
[[寛仁]]4年([[1020年]])ごろ、三条宮西に住む[[菅原孝標女]]が内親王家から「めでたき草子ども」を下賜されたというエピソードが『[[更級日記]]』にある。