「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の版間の差分

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ポーランドは協定に応じ、テッシェンを人民投票によって獲得したが、ハンガリーは応じなかった。ハンガリーはチェコスロバキアへの侵攻をほのめかしたが、ミュンヘンで英仏に見捨てられたチェコスロバキアがすがる相手はもはやドイツしかなかった。チェコスロバキアとハンガリーはドイツとイタリアの裁定に従うと声明した。[[11月2日]]、[[ウィーン]]でスロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部のハンガリーへの割譲が決定された。
 
しかし、領域を分断されることになるスロバキアとカルパティア・ルテニアでは民族運動がさらに激化し、[[11月9日]]、スロバキアでは[[ヨゼフ・ティソ]]、カルパティア・ルテニアでは[[{{仮リンク|アウグスティン・ヴォロシン]]([[:|en:|Avgustyn Voloshyn]])}}を首班とする自治政府が成立した。このためハンガリーへの割譲は実行されず、ハンガリー側にも不満が募った。
 
=== 共和国崩壊 ===
[[ファイルFile:Bundesarchiv Bild 146-1970-050-07, Berlin, Emil Hacha bei Hitler.jpg|thumb|250px|1939年3月15日、ベルリン[[総統官邸]]での[[エミール・ハーハ]]とヒトラー、ドイツ側閣僚]]
激化する民族運動を押さえきれないチェコスロバキア政府は[[1939年]][[1月]]、ドイツに協力要請を行った。しかしドイツ側の交換条件は苛烈を極め、チェコスロバキア政府は支援をあきらめざるを得なかった。チェコスロバキア政府は弾圧に転じ、[[3月6日]]にはカルパティア・ルテニアの自治政府、[[3月9日]]にはスロバキアの自治政府を解散させた。
 
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3月17日、イギリス首相チェンバレンはドイツによる事実上のチェコ併合を不当なものであると激しく非難し、「我が国は戦争は無分別なものであると信じるが、かかる挑戦に対しても無気力であると想像するのは激しい間違いである」と抗議したが、実力行使には出なかった。これをイギリスの宥和政策が続くものだと理解したヒトラーは、21日にポーランド外相[[ユゼフ・ベック]]に[[ダンツィヒ自由都市]]の割譲を求めるなど、[[ポーランド侵攻]]の準備や[[リトアニア]]の[[クライペダ|メーメル併合]]といった領土拡張政策を進めることになる。
 
一方でハンガリーはなおもスロバキア全土を要求し、[[3月23日]]、[[{{仮リンク|スロバキア・ハンガリー戦争]]([[:|en:|Slovak–Hungarian War|Slovak–Hungarian War]])}}が発生した。戦いは一週間ほど続いたが、ドイツの調停によってウィーン裁定の結果通り、南部スロバキアのハンガリーへの割譲による講和が決まった。
 
ドイツの占領下に置かれたボヘミアとモラビアは[[ベーメン・メーレン保護領]]となり、苛酷な統治が開始された。[[第二次世界大戦]]勃発後の1940年にはロンドンでベネシュを首班とする[[チェコスロバキア亡命政府]]が成立し、連合国の一員として戦争に参加した。[[1945年]]、ドイツの降伏後にチェコスロバキア亡命政府は帰国し、旧領の大半を回復したが、カルパティア・ルテニアは[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]][[ザカルパッチャ州]]としてソビエト連邦に併合された。