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'''松平 武雅'''(まつだいら たけまさ、[[元禄]]15年([[1702年]]) - [[享保]]13年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[1728年]][[9月2日]]))は、[[上野国|上野]][[館林藩]]第2代藩主。[[越智松平家]]2代。
 
[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主・[[松平義行]]の四男。母は側室・[[上月氏]]。幼名は新之助。初名は行高。[[官位]]は従五位下、[[肥前国|肥前]]守。
 
元禄16年([[1703年]])8月14日生まれとも伝わる。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。
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[[元服]]の際、父から[[偏諱]]を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、義行は元禄14年([[1701年]])に本家から兄・[[徳川綱誠]]の十五男・万三郎(のちの[[松平義孝]])を養子に迎えていたため、武雅は[[享保]]9年([[1724年]])、[[越智松平家]]の[[松平清武]]の養子とされ、同年家督を相続し館林藩主となる。
 
享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として[[常陸国|常陸]][[常陸府中藩|府中藩]]から[[松平武元|武元]]が迎えられ跡を継いだ。
 
{{越智松平家当主|1724年 - 1728年|第2代}}