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* [[魚澄惣五郎]]:[[日本史]]。東京帝大卒。のち広島大教授。
* [[杉本直治郎]]:[[東南アジア]]史。京都帝大卒。のち広島大教授。旧蔵書は広島大附属図書館「杉本文庫」として公開。
* [[長田新]]:[[教育学]]。[[京都大学|京都帝大]]卒。[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]研究。のち広島大教授。
* [[西晋一郎]]:[[倫理学]]。東京帝大卒。歴史学者[[西順蔵]]の父。
* [[藤原武夫]]:[[物性物理学]]。東京帝大卒。金属結晶物理学を研究し微晶研究施設長を務める。[[1948年]]第38回[[学士院賞]]を受賞。
 
=== 教育博物館「永懐閣」 ===
'''永懐閣'''(えいかいかく)は、[[1925年]]10月11日、広島高師の初代校長である[[北条時敬]]校長の転任を記念して[[尚志会|尚志同窓会]]によって建造されたのち高師に寄付され教育博物館として使用されたレンガ造・2階建ての建物である。広島では初めての本格的[[ゴシック様式|ゴシック]]風建造物であり、設計・施工は県立広島職工学校(現・[[広島県立広島工業高等学校]])が担当した。高師(文理大)正門(現在の東千田キャンパス正門)に向かって右側の電車通りに面する地点<ref>当時の住所は東千田町内。現在は中区千田町一丁目1番</ref>に位置し、当初は展示室・貴賓室のほか[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]研究室が設置されたが、文理大の発足にともない一時閉鎖されたのち、[[1934年]]1月には同校の附属教育博物館に転用された。
 
その後、永懐閣は博物館としては開店休業状態になっていたが、[[1944年]]8月に[[#理論物理学研究所|附属理論物理学研究所]]が設置されると同研究所の所屋として使用された。原爆被災時には爆心地から1.6㎞の位置にあり、爆風によって東西のレンガ壁と尖塔アーチを残してすべて崩壊した。このため詳細な時期は不明だが、戦後ほどなくして解体・撤去された<ref>以上、『ヒロシマの被爆建造物は語る』p.140、『ヒロシマをさがそう』p.148。</ref>。跡地は広島大学東千田キャンパスが立地する敷地の一部となっている。
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