「砂子義一」の版間の差分

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現在は各種ヒストリックイベントで、スカイラインなどを走らせるほか、トークショーなどにも積極的に参加している。
 
== エピソードなど ==
*プリンスと契約し2輪から4輪に転向した当時は、[[ヒール・アンド・トウ]](ブレーキとシフトダウンを並行してスムーズに行うテクニック)などの4輪特有の技法を知らず、プリンスの担当者がメモに「砂子、大石(秀夫)、使いものにならず」と記していたという。砂子いわく「当時の4輪は2輪より遅かったし2輪と違って転ばないので、コーナーに突っ込むだけ突っ込んでコースアウトしたりした。担当者のメモの内容に、こりゃ参ったなあと思った」などと語っている。
 
 
*1964年の第2回日本グランプリGT-IIクラスでは、生沢徹のスカイラインGTと[[式場壮吉]]の[[ポルシェ・904]]による「スカイライン伝説」誕生エピソードが有名だが、ポルシェを抜いて一時トップに立った生沢はすぐ式場ポルシェに抜き返され<ref group="注釈">スカイラインGTが圧倒的に高性能なポルシェを抜けたのは、友人同士だった生沢と式場の間で事前に談合があったためではないかという説も存在する。</ref>、その後にプリンスの同僚の砂子にも抜かれ3位でゴール。2位になった砂子は「生沢が式場君を抜いたのを見て『プリンスが優勝だ』と喜んだが、生沢はあっさりポルシェに抜かせて、まともに追いかけなかった。生沢に『おまえが追いかけられないなら俺が行く』と何度も合図したがどかないので、仕方なくスカGをドンと当てて合図して生沢をどかせて、ポルシェを追いかけた。横から当てて押しのけたのではなく、後ろから当てて合図しただけ」などと語っている。2位の砂子は優勝した式場から10秒ほど遅れてゴールしたのに対し、3位の生沢は2位の砂子から20秒ほど遅れてゴールしている。
 
 
*生沢との間に遺恨があるようなイメージも存在するが、1967年に日産が[[プリンス・R380|R380]]でレース出場を予定し砂子などのワークスチームをヨーロッパに派遣した際、生沢のイギリスのアパート<ref group="注釈">当時の生沢は[[フォーミュラ1|F1]]出場を目指しヨーロッパでレース活動を行っていた。</ref>に砂子を含む日産ワークス勢が宿泊したというエピソードがある。砂子は後年「(プリンス時代に)クルマでラジオを聞いていたら、生沢が乗り込んできて勝手に別の局に変えた。その時は『何だ!』と思ったが、今考えると俺と仲良くしたいという気持ちの表れだったのかなあ」と述べている。
 
 
*1966年の日本グランプリで[[プリンス・R380]]に乗り[[ポルシェ・906]]を抑えて優勝したが、「あの年のR380はまだまだだった。ポルシェに乗っているのが[[滝進太郎]]さん(アマチュアドライバー)だったからよかったが、いいドライバーが乗っていたら勝てたかどうか。1967年の段階ならR380もポルシェに追い付いていたと思う。クニさん(高橋国光、R380で2位)は優勝した生沢([[ポルシェ・906]])より速かったから」と述べている。
 
 
*プリンスと日産が合併した後、旧日産側のリーダー格だった[[田中健二郎]]が日産を離脱した<ref group="注釈">乗るマシンに恵まれなかったためか、プライベートチームである[[滝進太郎|タキレーシング]]に移籍。</ref>のに対し、旧プリンスワークスだった砂子は日産R380やR381などの最高峰マシンでレースに出場し続けた。
 
 
*日産が1969年頃から海外進出を目論みワークスドライバーをアメリカとヨーロッパに視察に派遣した時、[[北野元]]がR380で北米を担当。砂子はスカイラインGT(54CRという発展型)でヨーロッパを担当した。モンツァにて、ツーリングカーレースをかじっているという通訳の女性の運転で5周ほど下見した後、交代して「ガーンと走ったら」その通訳の女性を失禁させてしまった。<ref>[[三栄書房]]「[[日本の名レース100選]]」 vol.55 '66[[第三回日本GP]] 42年目の真実 p.30 ISBN 978-4-7796-0377-8</ref>
 
 
*1970年7月の富士1000kmでスカイライン2000GT-Rに乗り2位になった際、砂子があまりペースアップしないため、ペアを組んだ後輩の[[長谷見昌弘]]から「なぜもっと(1位を)追いかけないんですか」と言われたという。砂子は「あのレースでは[[日産・フェアレディZ|フェアレディ]]240Zに勝たせるのが俺等の役割だったから」と述べている。同レースはフェアレディ240Zのデビューレースであり、[[高橋国光]]と[[黒澤元治]]の乗る240Zが優勝した。
 
 
*後年、砂子の息子の智彦(砂子塾長)がヒストリックイベントで日産R380に乗った際、「オヤジはこんな難しいマシンに乗っていたのか!」と驚いていたという。砂子自身「R380に初めて乗り、[[富士スピードウェイ]]の30度バンクの中でシフトダウンのためステアリングから手を離したら、それだけでマシンが蛇行した。それだけ敏感で難しいマシン」と語っている。