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'''ユルゲン・ハーバーマス'''('''Jürgen Habermas''', [[国際音声記号|IPA]]: [ˈjʏʁgən ˈhaːbɐmaːs]、[[1929年]]
== 概説 ==
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==略歴==
1929年6月18日、ドイツの[[デュッセルドルフ]]に生まれた。父はエルンスト、母はグレーテ。父がグマースバッハの商工会議所会頭で[[ナチス]]党員であったこともあり、少年期を同地のドイツ少年団、[[ヒトラー・ユーゲント]]の一員として過ごし、敗戦を迎えた。[[1945年]]、ドイツ敗戦後に[[ギムナジウム]]での学習に戻った。アメリカ占領下での[[民主主義]]教育は、彼の思想形成に大きな影響を与えた。[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン]]、[[チューリッヒ大学|チューリッヒ]]、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン]]の大学に通い、[[新カント派]]、[[現象学]]、[[哲学的人間学]]、[[歴史学]]、[[経済学]]、[[心理学]]、[[ドイツ文学]]を専攻。[[1952年]]より書評、批評をフランクフルター・アルゲマイネ紙などに寄稿し始め、[[1953年]]、同紙に『ハイデガーと共にハイデガーに反対して考える』という論文を寄稿して彼を批判。[[1954年]]に[[フリードリヒ・シェリング]]に関する論文によりボン大学で博士号の授与を受けた後、1956年、[[フランクフルト・アム・マイン]]に拠点を戻していた社会研究所に入り[[テオドール・アドルノ]]の助手を務めた。しかし翌年に発表した文章が、社会研究所の中心人物であった[[マックス・ホルクハイマー]]にとって暴力革命を肯定する急進的すぎる内容だととらえられ、ホルクハイマーは研究所からハーバーマスの排除を図った。この頃、ハーバーマスは代表的著書である『[[公共性の構造転換]]』の着想をえており、フランクフルト大学の教授職をもとめたが、ホルクハイマーの反対を受けたことから断念し、1959年に社会研究所を辞職した。『公共性の構造転換』を完成させたハーバーマスは、教授資格を取得し、[[1961年]]から[[1964年]]までは[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]において、1964年から[[1971年]]までは[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]において社会学および哲学の教授。1964年にホルクハイマーがフランクフルト大学を退くと、後任としてフランクフルト大学教授の職についた。つづいて1971年から[[1983年]]まで[[ミュンヘン]]郊外の[[シュタルンベルク]]にある[[マックス・プランク研究所]]所長を務めた後、1983年より再びフランクフルト大学教授に就任し、[[1994年]]に退職
==思想==
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*『テロルの時代と哲学の使命』([[ジャック・デリダ]]、[[ジョヴァンナ・ボッラドリ]]、岩波書店、2004年)
*『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』([[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ヨーゼフ・ラッツィンガー]]、フロリアン・シュラー、岩波書店、2007年)
== 受賞歴 ==
*[[1986年]] [[ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞]]
*[[2001年]] [[フランクフルト・ブックフェア|ドイツ出版協会平和賞]]
*[[2003年]] [[アストゥリアス皇太子賞]]社会科学部門
*[[2004年]] [[京都賞思想・芸術部門]]
*[[2009年]] [[リッピンコット賞]]
*[[2013年]] [[エラスムス賞]]
==参考文献==
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