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善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった<ref>長野県立歴館(2009,p66)</ref>。[[院政期]]に書かれたとされる『[[色葉字類抄|伊呂波字類抄]]』にその引用があり、その記述には日本の[[仏教公伝]]の旧説とされる552年から丁度50年後の[[602年]](推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た[[768年]]([[神護景雲]]2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。[[田島公]]は推古天皇の時代、信濃国の大部分は[[ヤマト王権]](大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には[[孝謙天皇|称徳天皇]]・[[道鏡]]の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている<ref>田島公「〈東国の荷前〉(〈東国の調〉)と〈科野屯倉〉-十巻本『伊呂波字類抄』所引〈善光寺古縁起〉の再検討を通じて―」(所収:吉村武彦 編『律令制国家と古代社会』(塙書房、2005年) ISBN 978-4-8273-1196-9))</ref>。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている<ref>『長野市の埋蔵文化財第121集 長野遺跡群 元善町遺跡 善光寺門前町跡(2)』 長野市教育委員会編 2008年3月</ref>。
 
{{要出典範囲|なお伝承では本尊が飯田から長野に移ったとされる。その途中で諏訪に7年間とどまり諏訪大明神のお告げにより長野に移ったとされている。このほか持ち回りで7年に1度御柱祭を行う善光寺周辺の神社(湯福、武井、妻科、水内大社)が諏訪大社と同じ祭神を祭るなど古くからの結びつきをうかがわせる話が長野と諏訪の双方に多い。また長野市内には諏訪町や諏訪町など諏訪に由来する地名も多い。長野市内で諏訪系の神社は200社に上るともとも言われている|date=2016-2}}。
 
[[治承・寿永の乱]](源平合戦)が本格化する直前の[[治承]]3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『[[吾妻鏡]]』[[文治]]3年7月27日条)。この火災は『[[平家物語]]』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の[[戸隠神社|顕光寺]]の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が[[関東御分国]]になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に[[源頼朝]]が信濃国[[守護]]兼[[目代]]を務める[[比企能員]]を通じて同国の[[御家人]]に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが[[相良氏]]に伝わる善光寺参拝の随兵[[交名]]から知ることができる(『[[大日本古文書]]』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の[[北条氏 (名越流)|名越氏]]一族であった。[[北条朝時|名越朝時]]は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に[[新善光寺]](現在は[[葉山町|葉山]]に移転)を創建して、その遺言に従って[[寛元]]4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した[[宮騒動]]の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の[[北条氏 (金沢流)|金沢氏]]が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、[[念仏]]や[[禅]]と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった<ref>牛山佳幸「中世武士社会と善光寺信仰 –鎌倉期を中心に-」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』(東京堂出版、1999年) ISBN 978-4-490-20375-2)</ref>。中世以降の善光寺信仰の広まりから[[鎌倉時代]]以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの[[勧進]]聖たちによってである。[[後深草院二条]]の「[[とはずがたり]]」には半年余にわたり市内の有力者であった[[和田氏]]の館([[長野運動公園]]のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。