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1941年12月、太平洋戦争開始。富岡は第一段作戦において[[山本五十六]]連合艦隊司令長官の希望するハワイ攻略については確保が不可能という判断から賛成できず、海上交通破壊戦を一層強化することによるイギリス屈服手段を重視していたという<ref>戦史叢書80大本営海軍部・聯合艦隊(2)昭和十七年六月まで308頁</ref>。第二段作戦計画ではハワイ攻略について、[[三和義勇]]連合艦隊参謀は富岡、[[神重徳]]軍令部主席参謀と1942年10月をめどと話すが、富岡はハワイ攻略には反対だったという<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦52-53頁</ref>。ハワイ攻略を目指す連合艦隊が求める[[MI作戦]]と同時にアリューシャン方面の米軍進攻阻止を目的とした[[AL作戦]]を軍令部が加えた件に関して、富岡は「ミッドウェー作戦の戦術的牽制にもなるだろうと考えた。」と回想している<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦48頁</ref>。
1943年1月20日、「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」[[艦長]]<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089400|昭和18年1月22日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1038号
1944年11月7日、軍令部出仕。12月5日、軍令部一部長兼大本営海軍部参謀着任。軍令部参謀の[[猪口力平]]大佐は「富岡少将は、万人が認める人格見識ともにすぐれた作戦家」と評している<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社</ref>。台湾、沖縄を視察した際、台湾防衛は自信を持ちえない、沖縄戦場のみが戦勢挽回を策し得る決戦場であるとの確信を得て沖縄方面航空決戦に強い意向を持つようになる<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期241-242頁</ref>。
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