「黒須陽一郎」の版間の差分

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[[11月26日]]のドラフト会議では[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]から3位指名を受け、その直後には入団の意思を示していた<ref name="Number_20101020_49"/>。球団側はスカウト部長の[[片岡宏雄]]が立教の先輩にあたる事もあって入団することを疑わず、指名当日から翌日にかけて連絡を取らなかったが、指名翌日に興銀の内定者の集いに参加して考えが大きく変わりプロ入りを拒否する事になった<ref name="Number_20101020_49"/>。話し合いの末、[[12月15日]]にはヤクルトが獲得断念を発表している<ref>読売新聞、1989年12月15日付朝刊、P.19</ref>。
 
これについて片岡は後に、「当初ヤクルトに黒須を獲得する気はなかったが、本人が『どうしても野球が捨てられない』と頼みに来たので、渋る[[野村克也]]監督を説得して指名した」「それをひっくりかえしたからね。キャプテンがこんな人物ではと[[立教大学硬式野球部]]とは縁を切り、OB会も退会した」と語っている<ref>『プロ野球スキャンダル事件史』宝島社 ISBN978ISBN 978-4-7966-5341-1</ref>。
 
一般企業への就職という点では、前年にプロ入りを拒否した[[志村亮]]から影響を受けたと後に語っている<ref name="Number_20101020_49"/>。興銀の仕事のスケールの大きさに魅力を感じ、また野球しかできないという周囲の見方への反骨心などが入社の動機になったという<ref name="Number_20101020_49"/>。