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== 解説 ==
時憲暦は、[[ドイツ]]・[[ケルン]]の出身の[[キリスト教]][[宣教師]][[アダム・シャール]](湯若望)によって編纂されたものである。[[明]]朝最後の皇帝となる[[崇禎帝]]から、当時使用されていた[[大統暦]]よりももっと正確な[[暦]]を作るようにとの命を受け、徐光啓らの協力を得て「'''崇禎暦'''」(すうていれき)を作成した。しかし、[[1644年]]3月に[[李自成]]が[[北京]]を占領し、崇禎帝は自殺、明は滅亡した。直後に李自成軍を破って北京を占領した[[清]]は天文学に明るいシャールを重用し、崇禎暦は同年10月に「'''時憲暦'''」として全国に公布された。シャールは[[1646年]]、シャールは正式に国立天文台所長に任命されている。
 
後に、[[乾隆帝]]の諱名が弘暦であったため、中国では「暦」の字の使用を避けて'''時憲書'''(じけいしょ、満州語: {{mongol|ᡝᠷᡞᠨ<br>ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ<br>ᠲᠣᠨ ᡳ<br>ᠪᡞᠳᡥᡝ}}、転写: erin forgon i ton i bithe)と呼ぶようになった。
 
=== 暦の廃止とその後 ===
中国において、[[1912年]]の[[中華民国]]建国(建国と同時に[[グレゴリオ暦]]を採用)および清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。その後さまざまな変転があったが、現在(2016年時点)でも[[春節]]の日取りが旧暦をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形となっている。
中国では、[[1912年]]の[[中華民国]]建国および清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。中華民国は建国と同時に[[グレゴリオ暦]]([[太陽暦]])を採用し、さらに清朝が滅亡すると中国全土でも同暦が正式な暦となったため、時憲暦は現在までにおいて'''中国最後の太陰太陽暦'''となっている。
 
中国において、[[1912年]]の[[中華民国]]建国(建国と同時に[[グレゴリオ暦]]を採用)および清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。その後さまざまな変転があったが、現在(2016年時点)でも[[春節]]の日取り旧暦(= 時憲暦)をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形となっている。
 
==関連項目==