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武田藤信の存在
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天文7年(1538年)、[[甲斐国|甲斐]]の[[戦国大名]]である[[武田信玄]]の嫡男として生まれる<ref>「大聖寺甲斐源氏系図」『[[山梨県史]]』資料編6上(県内記録)所載。</ref>。甲斐統一を果たした[[武田信虎]]の孫にあたる。父・晴信は天文5年に公家の[[三条公頼]]の娘([[三条夫人]])を正室に迎えており、『[[甲陽軍鑑]]』によればこれには武田氏と同盟関係にあった[[駿河国]]の[[今川氏]]の斡旋があったという。天文19年([[1550年]])に13歳で[[元服]]し、4月8日には駿河の[[今川義元]]の娘(従姉妹)を正室に迎えている<ref>ともに「[[高白斎記]]」『山資』6上所載、「高白斎記」は武田家臣駒井政武の原筆と考えられている武田家の記録資料で、義信の祝言にあたる天文22年までの武田家に関する家政記事や対外情勢が記されている。また、武田氏と今川氏は晴信・義元の前代において和睦し同盟関係にあり、晴信・義元期には[[相模国]]の[[後北条氏]]との同盟が成立し[[甲相駿三国同盟]]となるが、義信正室に義元の娘が迎えられたこともその一環であると考えられている</ref>。[[傅役]]は[[飯富虎昌]](『甲陽軍鑑』)。天文21年([[1552年]])8月には[[鎧着初|具足始]]が行われる(「高白斎記」)。
 
翌天文22年([[1553年]])12月29日には、武田氏歴代の中で初めて[[室町幕府]]将軍の[[足利義輝|足利義藤(後の義輝)]]より[[足利将軍家]]および[[清和源氏]]の[[通字]]である「義」の[[偏諱]]を受けて'''義信'''と名乗り<ref>これとは別に「藤」の偏諱を受けて武田藤信を名乗った人物が幕府[[奉公衆]]を務めた[[武田氏#.E4.BA.AC.E9.83.BD.E6.AD.A6.E7.94.B0.E6.B0.8F|京都武田氏]]に存在した。</ref>、甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。
 
初陣は天文23年([[1554年]])の[[信濃国]][[佐久郡]]の[[知久氏]]攻め<ref>「[[勝山記]]」『戦国遺文武田氏編』414号文書)</ref>。