「麒麟麦酒」の版間の差分

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=== 創業 ===
*[[1869年]] - ローゼンフェルトとウィーガントが[[横浜市|横浜]]山手46番に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー(横浜ブルワリーまたはジャパン・ブルワリー(初代)とも呼ばれる)」を創設。居留地の外国人向けにビールの醸造を開始(後にいくつかの統廃合を経て横浜ブルワリーは閉鎖。[[1871年|1871]] - [[1872年]]頃、ウィーガントは山手68番の「ヘフト・ブルワリー(オランダ人の、ノールトフーク・へフトにより設立された醸造所)」に移った。ヘフト・ブルワリーはいったん閉鎖後、[[1874年|1874]] - [[1875年]]ごろ「ババリア(バーバリアン)・ブルワリー」として再興)。
*[[1870年]] - ノルウェー系アメリカ人 ウィリアム・コープランドが横浜山手123番(天沼)に「'''スプリング・バレー・ブルワリー'''(コープランドビール)」開設。大衆向けビールとしては日本で初めて継続的に醸造・販売を開始。当時としては最新鋭の[[パスチャライゼーション|パストリゼーション]](低温殺菌法)を取り入れ、大量醸造・販売を開始。
*[[1875年]] - コープランドが、工場隣接の自宅を改装して日本初の[[ビアガーデン]]であるパブブルワリー「'''スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン'''」を開設。
*[[1876年]] - コープランドとウィーガントで、商事組合「コープランド・アンド・ヴィーガント商会」を結成(事実上、ウィーガントの「ババリア・ブルワリー」を合併)。コープランドが支配人、ヴィーガントが醸造担当となった。主たる醸造所を「スプリング・バレー・ブルワリー」とし、山手68番の旧「ババリア・ブルワリー」は、同組合の麦芽の発酵所「モルトハウス」として残された。この頃、品質の良さが評判となり、横浜のみならず、東京、長崎、神戸、函館、上海、サイゴンと販路を拡大。