「ドゥブロヴニク」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m cat
m ひらがなの「へ」→ひらがなの「に」
105行目:
町の起源は古く[[ローマ帝国]]時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名'''ラグーサ'''は、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。歴史的に7世紀頃ラウス (Laus) と名付けられていた岩島に近くの都市[[エピダウロス (ダルマチア)|エピダウロス]] (Epidaurus) からの[[ダルマチア人]]の避難民が、[[スラヴ人]]の侵略から逃れるために成立したとされる<ref>[http://books.google.com/books?id=E_NBAAAAYAAJ&pg=PA218&dq=Epidaurus+ragusa+Researches+on+the+Danube+and+the+Adriatic&lr=&cd=1#v=onepage&q=&f=false Researches on the Danube and the Adriatic] by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, [[Dalmatia]] and Croatia, Servia and Bulgaria-Brockhaus Chapter 9. page 218</ref> 他、[[8世紀]]からの[[ビザンチン]]の[[バジリカ]]や城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、従来からの説が異議を唱えられることもある。バジリカは当時、相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。また、科学的な類似性によってラグーサは[[紀元]]以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。「ギリシャ説」は最近の発見によって増えてきており、ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス (Laus)、ラウサ島 (Lausa) 説は否定された。
 
アントゥン・ニチェティッチ博士 (Antun Ničetić) の「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest dubrovačke luke) によれば、ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。鍵となる要素は古代船は1日当たり45-50[[海里]]の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、ギリシャ人の居住地として知られた[[ブドヴァ]]と[[コルチュラ島]]の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。
 
=== ラグーサ共和国 ===
132行目:
当時[[モンテネグロ]]の政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している<ref name="yorku1">{{cite web|url=http://www.yorku.ca/soi/_Vol_5_1/_HTML/Pavlovic.html#fnB28 |title=Pavlovic: The Siege of Dubrovnik |publisher=Yorku.ca |author=Srđa Pavlović|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nYLi2zaI|archivedate=2010-02-15|accessdate=2008-11-11}}</ref>。この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人で[[モンテネグロ人]]の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった<ref name="yorku1"/>。この要求には[[スロボダン・ミロシェヴィッチ|ミロシェビッチ]]が送り込んだ民族主義者の[[大セルビア]]主義が関係している。
 
[[1991年]][[10月1日]]にドゥブロヴニクユーゴスラビア人民軍 (JNA) が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。[[12月6日]]には最大の砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、ドゥブロヴニク包囲では犠牲者に著名な詩人である[[ミラン・ミリシッチ]] (Milan Milisić) が含まれていた。海外メディアは旧市街の損害や人的犠牲を大きく大袈裟なくらいに批判した<ref>Joseph Pearson, 'Dubrovnik’s Artistic Patrimony, and its Role in War Reporting (1991)' in European History Quarterly, Vol. 40, No. 2, 197-216 (2010). [http://ehq.sagepub.com/cgi/content/abstract/40/2/197]</ref>。紛争終結後は砲撃による旧市街の損害は復旧が進んだ。修復は[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]のガイドラインに忠実に元来の姿に戻されている。[[2005年]]にはもっとも被害を受けた箇所も復旧しており、紛争の被災地を示した地図を城門近くで見ることが出来る。[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]でのJNAの大将や将校の起訴内容にはこの砲撃も含まれている。
 
== ドゥブロヴニクの言葉 ==
192行目:
 
== 交通 ==
ドゥブロヴニク市内には{{仮リンク|ドゥブロヴニク空港|en|Dubrovnik Airport}}があり、中心部から20kmほど離れた[[コナヴレ]]のチリピ (Čilipi) 近くに位置する。国際空港からは欧州各都市へアクセスすることが可能で、多くの観光客の玄関口となっている。空港とドゥブロヴニク旧市街やクロアチア各都市や近隣国とを結ぶ長距離バスターミナがある[[グルージュ]] (Gruž) へはバスが運行されている。深夜まで走り市内の路線網が良く整備され高頻度な路線バスも運行されている。しかしながら、ドゥブロヴニクへは他のクロアチアの主要都市への鉄道路線がない<ref>{{cite web |url=http://www.dubrovnik-online.com/english/transportation_rail.php |title=Transportation Rail |accessdate=20 June 2009-06-20 |publisher=Dubrovnik Online}}</ref>。[[1975年]]までは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の主要都市である[[モスタル]]や首都[[サラエヴォ]]まで[[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代に建設された軌間760mmの狭軌鉄道が運行されていた。今日、ボスニア・ヘルツェゴビナへの交通手段は路線バスや車などしかない。ザグレブ、ラヴチャ (Ravča) を結ぶA1ハイウェーがドゥブロヴニクへ延長される計画もある。[[ペリェシャツ半島]]を通る橋が計画され、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を経由しないルートが検討されたがこれは資金的な問題により計画が中止され、現在はボスニア・ヘルツェゴビナ領内を通過する高速道路の建設についてボスニア・ヘルツェゴビナ政府と交渉することが検討されている。しかしながら、2013年7月からクロアチアが[[欧州連合]]に加盟することから国境の管理問題がある<ref>[http://www.neurope.eu/article/croatia-build-corridor-through-bih-instead-peljesac-bridge-0 Croatia to build a corridor through BiH instead of Pelješac Bridge] New Europe 2012-05-12</ref>。
 
== 教育 ==