「コロンビア川」の版間の差分

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| accessdate = 2007-11-08
}}</ref>。
{{仮リンク|オカノガン川|en|Okanogan River}}と合流した後で川は南に向きを変え、州の中央部で{{仮リンク|ワナッチー川|en|Wenatchee River}}との合流後、南東に向かう。このCの字を描く流路の区間も“ビッグ・ベンド”と呼ばれている。1万年から1万5千年前にかけて繰り返し発生した{{仮リンク|ミズーラ洪水|en|Missoula Floods}}により大量の水流が直接南へ流れ、{{仮リンク|グランドクーリー|en|Grand Coulee}}と呼ばれる古代の河床を形成した。洪水期がおわると、川は現在の流れとなり、グランドクーリーは乾燥していった。20世紀中葉に[[グランドクーリーダム]]が建設され、{{仮リンク|ルーズベルト湖|en|Franklin D. Roosevelt Lake}}が誕生した。また近くの{{仮リンク|クーリー (地形)|label=涸れ谷(クーリー)|en|Coulee}}に湖水が汲み出され、{{仮リンク|バンクス湖|en|Banks Lake}}という[[人造湖]]が造られた<ref name="basinproj">
{{cite web
| title = Columbia Basin Project
86行目:
|journal= Popular Mechanics
|date= 1954年5月
|pages=128–32128-32
|accessdate=2012-03-01
}}</ref>。
180行目:
|year = 2003
|location =オレゴン州ポートランド
|pages = 13–1413-14
|isbn = 978-0-88192-789-4
|ref=harv
215行目:
| accessdate = 2008-10-01
}}</ref>。
[[カスケード山脈]]の隆起は、[[更新世]]初期(2百万年前~70〜70万年前)に始まった。コロンビア川は隆起する山脈を侵食していき、{{仮リンク|コロンビア川渓谷|en|Columbia River Gorge}}を形作っていった<ref name="USGSgeohist"/>。
 
川とその流域は、[[最終氷期]]の終わりにかけて生じた世界最大級の破滅的洪水を複数回経験している。{{仮リンク|ミズーラ湖|label=ミズーラ氷河湖|en|Lake Missoula}}の周期的なアイスダムの決壊は{{仮リンク|ミズーラ洪水|en|Missoula Floods}}を引き起こし、世界全体の河川の総流量の10倍に及ぶ膨大な水が、数千の間に何十回となく溢れ出た<ref>
241行目:
|year= 2007
|isbn= 978-0-8137-0009-0
|pages= 213–14213-14, 230
}}</ref>。
数カ所の狭隘部で溢水が滞留し、{{仮リンク|ルイス湖|en|Lake Lewis}}等の一過性の湖を作り出し堆積物を跡に残した。水深は、{{仮リンク|ワルーラ・ギャップ|en|Wallula Gap}}で380メートル、[[ボンネビル・ダム]]で250メートル、オレゴン州[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]で120メートル以上と見積もられている<ref>
265行目:
| trans_title = 放射性炭素年代測定の結果は、ボンネビル地すべりの年代がこれまでの想定よりもかなり最近であることを示す
| work= [[オレゴニアン]]
| date= September 9, 1999-09-09
| url= http://landslides.usgs.gov/recent/archives/1999bonneville.php
| accessdate= 2009-09-07}}</ref><ref name=reynolds>
278行目:
| volume= 29
| issue= 3/4
| pages= 11–1611-16
| url= http://www.dnr.wa.gov/Publications/ger_washington_geology_2001_v29_no3-4.pdf
| accessdate= 2009-09-07
291行目:
| trans_title = 科学-地すべり探偵
| work= [[オレゴニアン]]
| date= May 15, 2002-05-15
| url= http://earthquake.usgs.gov/regional/pacnw/paleo/greateq/20020515.html
| accessdate= 2009-09-07
415行目:
| work = The Online Encyclopedia of Washington State History
| publisher = HistoryLink.org
| date = January 13, 2003-01-13
| url = http://www.historylink.org/index.cfm?DisplayPage=output.cfm&File_Id=5051
| accessdate = 2008-04-01 }}</ref>、そして現在ワシントン州内の中流域に居住する{{仮リンク|シャハプティン語|en|Sahaptin language}}を話す人々は ''{{Lang|uma|Nch’i-Wàna}}'' と呼んでいる<ref>
441行目:
| publisher=ネブラスカ大学出版局
| isbn=0-8032-8169-2
| pages=100–101100-101
| url=http://sinixtnation.org/content/coyote-meets-wind-and-some-others}}</ref>。
この3つの言葉は全て本質的に同じで「大きな川」という意味である。
470行目:
| url= http://books.google.com/?id=2gRZs0up0XcC
| accessdate= 2009-09-11
| pages= 12–1412-14}}</ref><ref name=ella>
{{Cite book
| last= Clark
483行目:
| url= http://books.google.com/?id=Z8-3KVL03UYC
| accessdate= 2009-09-11
| pages= 20–2520-25
}}</ref>。
 
499行目:
|publisher= ワシントン大学出版局
|isbn= 0-295-97485-0
|pages= 23–2523-25, 493, 496
}}</ref><ref name=DallesPpl12>{{harvnb|Boyd|1996|pp=12–13}}</ref>。
 
529行目:
| year=1996
| isbn=0-8032-1236-4
| pages=4–74-7
| ref=harv
}}</ref>。
570行目:
|year=2005
|isbn=0-295-98546-1
|pages=20–2120-21
}}</ref>。
この場所には遥か大平原からも交易者が訪れていた<ref>
615行目:
| publisher= ワシントン州魚類野生生物局及び{{仮リンク|オレゴン州魚類野生生物局|en|Oregon Department of Fish and Wildlife}}
| date= August 2002
| pages= 2–32-3, 6, 47, 62
| url= http://wdfw.wa.gov/fish/columbia/2000_status_report_text.pdf
| format= PDF
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20060926091324/http://wdfw.wa.gov/fish/columbia/2000_status_report_text.pdf
| archivedate = September 26, 2006-09-26
| accessdate=2006-12-26
}}</ref>。
先住民による年間漁獲量は19,000トン程度と見積もられている<ref name="bloodstruggle"/>。最も重要かつ生産性の高い漁場はセリロ滝で、おそらくは北米で最も漁獲高の大きい内陸の漁場だった<ref name=cain>
670行目:
| url=http://www.nwcouncil.org/history/commercialfishing.asp
| year=2010
| accessdate=January 26, 2012-01-26}}</ref>
 
20世紀を通じて河川の開発が行われ、1938年のカスケード急流の水没を嚆矢として主要な漁場は次々とダム湖の底に沈んでいった。こういった開発は先住民と合衆国政府機関との多方面に渡る交渉の結果成し遂げられていった。様々な部族からなるウォーム・スプリングス部族連合は、1938年に[[ボンネビル・ダム]]が完成し、カスケード急流が水没した後、憲章を採択し法人化した<ref name="OPB-ORstory">
722行目:
| place=ワシントン州シアトル | publisher=Sasquatch Books | year=1999 | isbn=1-57061-215-3}}</ref>。
 
18世紀には、大西洋(もしくは北アメリカ内陸部)と太平洋を結ぶ[[北西航路]]の発見に強い関心が集まった。数多くの船舶がこの領域に押しかけ、特にスペイン籍とイギリス籍の船舶が、[[ハドソン湾]]や[[ミズーリ川]]へ繋がる長大河川を求めて北西海岸を探索した。コロンビア川の発見を最初に報告したヨーロッパ人は、{{仮リンク|ブルーノ・デ・ヘセタ|en|Bruno de Heceta}}で、1775年に河口を目にしている。流れが強く、人員不足もあって、部下の進言に従い彼は川の探検に乗り出さなかった。彼は河口部を湾とみなし、エンセナダ・デ・アスンシオン (''{{lang|es|Ensenada de Asunción}}'') と名付けている。その後に制作されたスペインの地図には、彼の報告に基づき、川をリオ・デ・サン・ロケ (''{{lang|es|Rio de San Roque}}'' <ref name="HistLinkGray"/>、あるいはその入口をエントラーダ・デ・ゼタ (''{{Lang|es|Entrada de Hezeta}}'') <ref name="Hayes"/> と記載したものがある。へセタの報告を受けて、イギリス人{{仮リンク|沿岸毛皮交易|en|maritime fur trade}}業者の{{仮リンク|ジョン・ミアーズ|en|John Meares}}船長が、1788年に川を捜索したものの最終的に存在しないと結論を下した<ref>{{cite web | title = Cape Disappointment State Park
| language = 英語
| trans_title = ディスアポイントメント岬州立公園
755行目:
| language = 英語
| trans_title = ルイスとクラークの探検以前、ブロートン大尉の川の名前:1792年のコロンビア川探検
|jstor=20615586 |journal = オレゴン歴史協会四季報 |year= 2005 |volume=106 |issue=4 |publisher=オレゴン歴史協会}}</ref><ref name="friedman">{{cite book |last= Friedman |first= Ralph |title= In Search of Western Oregon |publisher= Caxton Press |year= 2003 | isbn= 978-0-87004-332-1 |pages= 304–05304-05}}</ref>。
 
[[File:ColyerColumbia76.jpg|thumb|250px|alt=背景の山並みの方から流れてくる大きな川の絵画。常緑樹が川の両岸に立ち並び、左側の河岸の奥には中景として巨大な岩の尖塔が描かれている。|『コロンビア川、カスケード山脈、オレゴン』1876年{{仮リンク|ヴィンセント・コリヤ|en|Vincent Colyer}}作、(キャンバス油絵)左側に{{仮リンク|ビーコン・ロック州立公園|label=ビーコン・ロック|en|Beacon Rock State Park}}が描かれている。]]
[[File:Lewis and Clark Columbia River.jpg|thumb|250px|alt=コロンビア川下流とその支流、および周辺の山地と先住民の集落が画かれた初期のグレースケールの地図。現在のワシントン州東部から太平洋にかけてが描かれている。| [[ルイス・クラーク探検隊]]の成果に基づいた詳細な地図。ウィラメット川が「マルトノア川」、スネーク川が「ルイシーズ川」と記載されている([[:Image:Map of Lewis and Clark's Track, Across the Western Portion of North America, published 1814.jpg|全図]])。]]
 
コロンビア川はミズーリ川の水源とほぼ同じ緯度にあるので、グレイとバンクーバーは念願の北西航路を発見したのではないかと推測していた。1798年発行のイギリスの地図には、コロンビア川とミズーリ川の間を結ぶ点線が描かれている<ref name="Hayes"/>。しかし、アメリカ人探検家の[[メリウェザー・ルイス]]と[[ウィリアム・クラーク (探検家)|ウィリアム・クラーク]]がアメリカ西部の広大な地図のない大地を遠征し(1803年~1805〜1805年)、その結果を地図に描いて2つの川の間に通廊は存在しないことを示した。[[ロッキー山脈]]を踏破した後、ルイスとクラークは[[丸木舟]]を作り、スネーク川を漕ぎ降り、現在のワシントン州[[トリシティズ (ワシントン州)|トリシティズ]]近くでコロンビア川に辿り着いた。彼らは川を数マイル遡り、{{仮リンク|ベイトマン島|en|Bateman Island}}まで辿り着いた後、川を下っていって河口で遠征を終え{{仮リンク|クラットソップ砦|en|Fort Clatsop}}を建設した。この砦は短命で、3ヶ月しか持たなかった<ref name="Hayes"/>。
 
[[北西会社]]に雇われていたカナダ人の探検家、{{仮リンク|デイヴィッド・トンプソン (探検家)|label=デイヴィッド・トンプソン|en|David Thompson (explorer)}}は、1807年から1808年にかけての冬を、コロンビア川源泉近くの現ブリティッシュコロンビア州{{仮リンク|インヴァーミア|en|Invermere, British Columbia}}にあった{{仮リンク|クートネー・ハウス|en|Kootenae House}}で過ごした。続く数年にわたって、彼は川と北部流域の大半を探索し続けた。1811年に、彼はコロンビア川を太平洋へと下っていって、[[ジョン・ジェイコブ・アスター]]の{{仮リンク|太平洋毛皮会社|en|Pacific Fur Company}}が河口に設立したアストリアへたどり着いた。北からの帰路において、トンプソンはそれまで訪れていなかった区間を探索しており、結果としてコロンビア川の本流を完全に踏破した最初のヨーロッパ系アメリカ人となった<ref name="Hayes"/>。
766行目:
1825年、[[ハドソン湾会社]] ([[:en:Hudson's Bay Company|HBC]]) がコロンビア川の堤へ、{{仮リンク|コロンビア・ディストリクト|en|Columbia District}}における本部として{{仮リンク|フォート・バンクーバー|en|Fort Vancouver}}(現在のワシントン州[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]])を設立し、ロッキー山脈より西側全域を対象として運営を始めた。医師であった[[ジョン・マクローリン (ハドソン湾会社)|ジョン・マクローリン]]が、コロンビア・ディストリクトにおける{{仮リンク|主任仲買人|en|Factor_(agent)}}として派遣された。HBC はコロンビア・ディストリクトの運営をコロンビア川経由で太平洋へ向かうことに方針変更し、コロンビア川はこの地域の流通の主要ルートとなった<ref>{{cite book |last= Meinig |first= D.W. |authorlink= :en:D. W. Meinig |title= The Great Columbia Plain
| language = 英語
| trans_title = 大コロンビア平原 |origyear= 1968 |edition= Weyerhaeuser Environmental Classic |year= 1995 |publisher= ワシントン大学出版局 |isbn= 0-295-97485-0 |pages= 73–7973-79}}</ref>。1840年代初頭には、アメリカ人が[[オレゴン・トレイル]]を経由してオレゴン・カントリーへの入植を開始し、HBCは、領域内のアメリカ人の居住地に対して妨害を仕掛けていったものの、その数は増え続けていった。入植者の多くはコロンビア川の下流を目指し、フォート・バンクーバーへと旅していった<ref>{{cite book |last= Mackie |first= Richard Somerset |title= Trading Beyond the Mountains: The British Fur Trade on the Pacific 1793–1843
| language = 英語
| trans_title = 山脈を越えた交易:1793年~1843年の太平洋岸におけるイギリスの毛皮交易
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合衆国とイギリスの間で{{仮リンク|1818年条約|en|Treaty of 1818}}が締結され、両国は10年間オレゴン・カントリーにおいて同等の権利を享受することを合意した。1828年までに、いわゆる「共同領有」状態を無期限に継続すべく条約は更新され、その時点でコロンビア川下流が境界となる公算が高まった。何年もの間、ハドソン湾会社はコロンビア川の管理を成功裏に維持し続けており、足場を確保しようとするアメリカの試みを阻害し続けてきた。しかし1830年代になると、アメリカ人の宗教団体がコロンビア川下流域において教会を数カ所で設立した。そして1840年代には大量のアメリカ人の入植者がイギリスの管理を崩し始めた。ハドソン湾会社は供給が激減していた毛皮交易から、サケや材木などの品目の輸出に切り替えて優位を維持すべく努力を重ねた。植民地化も試みられたが、アメリカ人居留地とうまく迎合できず失敗に終わった。アメリカ人は通常、コロンビア川の南に入植し、多くはウィラメット渓谷に居を構えた。ハドソン湾会社は川の北側に居住地を設立しようと試みたが、ほとんどのイギリス人入植者も、南のウィラメット渓谷に移っていった。イギリス人入植者は渓谷からアメリカ人の影響力を薄めようと考えていたのだが、アメリカ人の入植者の圧倒的な人数が思惑通りには進ませなかった。こういった成り行きは、「共同領有」の問題と[[オレゴン境界紛争|境界線紛争]]を再燃させた。一部のイギリス人は、とくにハドソン湾会社はコロンビア川を境界とすべく奮闘したが、1846年に締結された[[オレゴン条約]]により、境界は北緯49度線と平行に引かれることになった。コロンビア川自体は合衆国の[[オレゴン準州]]と[[ワシントン準州]]の境界となる<ref>{{cite book |last= Meinig |first= D.W. |authorlink= :en:D.W. Meinig |title= The Great Columbia Plain
| language = 英語
| trans_title = 大コロンビア平原 |origyear= 1968 |edition= Weyerhaeuser Environmental Classic |year= 1995 |publisher= ワシントン大学出版局 |isbn= 0-295-97485-0 |pages= 72–7372-73, 75, 117, 146–47146-47, 169–70169-70}}</ref>。オレゴンは1859年に正式な州に昇格し、ワシントンは1889年に昇格した。
 
20世紀に代わるころには、コロンビア川における航行の困難さが、カスケード山脈東側の{{仮リンク|インランド・エンパイア (北西太平洋岸)|label=インランド・エンパイア|en|Inland Northwest (United States)}}地域における経済発展の障害と見なされてきていた。<ref>{{cite news
866行目:
| accessdate = 2008-09-11 }}</ref>。
 
{{仮リンク|カスケード閘門群および運河|en|Cascade Locks and Canal}}がカスケード急流で最初に建設されたのは1896年で<ref>{{Cite news|newspaper=The Oregonian |date=January 1, 1895-01-01|p=8}}</ref>、これにより蒸気船が安全にコロンビア川渓谷を航行できるようになった<ref name="scott">{{cite book
| last = Scott
| first = Harvey W.
964行目:
| accessdate = 2008-09-11
| url = http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=VC&p_theme=vc&p_action=search&p_maxdocs=200&s_dispstring=Bush%20budget%20offers%20$15%20million%20for%20dredging&p_field_date-0=YMD_date&p_params_date-0=date:B,E&p_text_date-0=2006&p_field_advanced-0=&p_text_advanced-0=(Bush%20budget%20offers%20$15%20million%20for%20dredging)&p_perpage=10&p_sort=_rank_:D&xcal_ranksort=4&xcal_useweights=yes}}</ref>。
 
 
{{clear}}
1,025 ⟶ 1,024行目:
| volume = 13
| page = 122
| date = 1989年秋季-冬季
| publisher = Forest History Society and American Society for Environmental History
| jstor = 3984393
1,107 ⟶ 1,106行目:
{{legend|#A87000|民間}}]]
 
連邦{{仮リンク|土地改良局|en|Bureau of Reclamation}}の{{仮リンク|コロンビア盆地計画|en|Columbia Basin Project}}では、ワシントン州中央部の、肥沃な黄土が広がるコロンビア盆地一帯の乾燥地域を対象としている<ref name="basinproj"/>。複数の団体が競合する提案を出していたが、[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領は1933年にコロンビア盆地計画を認可した。この計画の要は[[グランドクーリーダム]]であり、完成後にコロンビア川から水を汲み上げて、乾ききった{{仮リンク|グランド・クーリー|en|Grand Coulee}}に導水し、{{仮リンク|バンクス湖|en|Banks Lake}}を形成した。1935年には、60~9060〜90メートル程あったダムの計画高が150メートルに増やされ、それによってダム湖となる範囲がカナダ国境を越えることとなった。こうして、ニューディール政策としては地方の小規模な計画だったものから、重要な国家レベルの計画へと成長していった<ref name="Pitzer"/>。
 
この計画における当初の目的は[[灌漑]]であったが、第二次世界大戦の勃発により、アルミニウム生産と[[ハンフォード・サイト]]における[[核兵器]]開発のために大きな電力需要が生じた。灌漑は1951年に開始されている<ref name="USNPS">{{cite book
1,151 ⟶ 1,150行目:
コロンビア川の豊かな水量と、大きな平均勾配(1キロメートル当り40.9センチメートル)は、[[水力発電]]に極めて適している。ちなみにミシシッピ川の平均勾配は1キロメートル当り12.3センチメートルに過ぎない。コロンビア川単独で、全米の潜在水力発電量の3分の1を占める<ref>{{cite book |last= Harden |first= Blaine |title= A River Lost: The Life and Death of the Columbia |language= 英語 |trans_title= 失われた川:コロンビア川の生と死 |year= 1996 |publisher= W.W. Norton & Company |isbn= 0-393-03936-6 |page= 17}}</ref>。
 
150もの水力発電計画のなかで最大級の[[グランドクーリーダム]]と{{仮リンク|チーフ・ジョゼフ・ダム|en|Chief Joseph Dam}}は、合衆国内でみても最大規模であり<ref>{{cite web | title = Renewable Energy Sources: A Consumer's Guide | language = 英語 | trans_title = エネルギー源の更新:利用者ガイド | publisher = 合衆国エネルギー省:エネルギー情報事業団 |year = 2004 | url = ftp://ftp.eia.doe.gov/brochures/brochure/renew05/renewable.html | accessdate = 2007-11-19}}</ref><ref>{{cite web | title = Chief Joseph Dam and Rufus Woods Lake | language = 英語 | trans_title = チーフ・ジョゼフ・ダムとルーファス・ウッズ湖 | publisher = 合衆国陸軍工兵隊 |date = November 19, 2003-11-19 | url = http://www.nwd-wc.usace.army.mil/report/chj.htm | accessdate = 2008-04-03}}</ref>、世界全体で見ても同様である<ref>{{cite web
| title = World's Largest Hydroelectric Plants
| language = 英語
| trans_title = 世界最大の水力発電施設
| publisher = [[ピアソン (企業)|ピアソン・エデュケーション]] (infoplease.com)
| date = 2000年-2008-2008
| url = http://www.infoplease.com/ipa/A0001336.html
| accessdate = 2008-04-01}}</ref>。
1,216 ⟶ 1,215行目:
| url =http://www.archive.org/details/gov.fdr.353.3.4
| publisher =合衆国内務省
| accessdate =February 22, 2012-02-22
}}</ref>のために、[[オクラホマ州]]のフォークシンガー、[[ウディ・ガスリー]]へ歌曲の提供を依頼した。ガスリーはこの地域を旅した一月のうちに[[:en:The Columbia River Collection|26曲]]を書き上げ、後に地域の文化史において重要な部分を占めることとなった<ref>{{cite news
| title = Rolling along the Columbia, driving for Woody Guthrie
1,310 ⟶ 1,309行目:
|-style="vertical-align:bottom;"
| style="text-align:left;" |{{仮リンク|デシューツ川|en|Deschutes River (Oregon)}}
| style="border-right-style:none;" |166|| style="text-align:left; border-left-style:none;" |m<sup>3</sup>/s&nbsp;<ref>{{cite book | last = Loy | first = William G. | coauthors = Allan, Stuart; Buckley, Aileen R, and Meacham, James E. | title = Atlas of Oregon | publisher = University of Oregon Press | year = 2001 | location = Eugene, Ore. | pages = 164–65164-65 | isbn = 0-87114-101-9}}</ref>
| style="border-right-style:none;" |27,700|| style="text-align:left; border-left-style:none;" |km<sup>2</sup>&nbsp;<ref name="USGS-rivers"/>
|{{Display none|0}}406&nbsp;km