「ザクセン王国」の版間の差分

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|人口=4,806,661 人(1910年)
|人口密度=320
|成立経緯=[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]]の王位獲得(1806年)
|消滅経緯=[[ドイツ革命]]による君主制廃止(1918年)<br />以後[[ザクセン州]]へ
|連邦参議院=4
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== 歴史 ==
[[アウステルリッツの戦い]]で[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]が敗北したことで、[[神聖ローマ帝国]]は[[1806年]]8月に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]によって解体された。同年12月ザクセンは公国から王国に昇格し、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]]フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン国王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]となった。その後フリードリヒ・アウグストは[[ティルジットの和約]]によって成立した[[ワルシャワ公国]]の公も兼ねることとなった。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]の結果、[[ワルシャワ公国]]は消滅した。ザクセン王国は[[ドイツ連邦]]に加入したが、北半分の領土を[[プロイセン王国]]に割譲させられることになった(割譲された領土はプロイセンの[[ザクセン州 (プロイセン)|ザクセン州]]となった)。現在の[[ザクセン州]]はこの時に残った領土に相当する。
 
[[1848年革命]]の際には、[[ライプツィヒ]]を中心として自由化運動が広まった。こうした中で成立したブラウン内閣は、言論・出版の自由を保障し、封建的諸特権の廃止を実現させた。また、ザクセン王国内における[[制限選挙]]を廃止、21歳以上の男性に[[普通選挙]]権を認めた。同年末の議会選挙では[[スラヴ人|スラヴ系]]少数民族である[[ソルブ人]]協会の代表も3人選出された。しかしこうした改革の潮流は、オーストリアやプロイセンでも反動化が進む中で鎮圧されていった。