「ノストラダムス」の版間の差分

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; 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554年)
: 1554年3月10日に目撃された天体現象([[彗星]]もしくは[[流星]])について、プロヴァンス総督のタンド伯クロード・ド・サヴォワに報告した書簡である(1554年3月19日付)。ドイツの出版業者ヨアヒム・ラーによってドイツ語訳された片面1枚刷りの瓦版で、1921年にグスタフ・ヘルマンという人物が近代以降では初めて言及した<ref name = Guinard_10mars />。オリジナルのフランス語またはラテン語の書簡は未発見だが、特に偽作を疑われてはいない<ref>Chomarat (1989) p.13 </ref>。1555年頃に出版されたが現存していない『1555年向けの暦』などにオリジナルが収録されていて、それがドイツ語訳されたのではないかという仮説もある<ref name = Guinard_10mars />。
:その内容は、銀色の火花を散らして空を突っ切っていったという[[松明]]のような炎(これは[[彗星]]の類と考えられている<ref>高田・伊藤 (1999) p.212</ref>)について、[[エクス=アン=プロヴァンス]]や[[サン=シャマ]]で取材を行なった結果も踏まえて分析し、プロヴァンス地方に襲い掛かる災厄の凶兆を見出すものとなっている<ref name = Guinard_10mars>[http://cura.free.fr/dico3/604A-com.html Un signe effroyable et merveilleux : une lettre de Nostradamus au comte de Tende (19 mars 1554)]</ref>。
 
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; 『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』(初版1555年)
: 3797年までの予言を収めたと称する<ref>Nostradamus (1555b) f. B ii. r.</ref>、ノストラダムスの主著。現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文は、基本的にこの著作のものであり、有名な「[[恐怖の大王]]」もこの作品に登場する。本来は「[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#百詩篇集|百詩篇集]]」と呼ばれる四行詩と散文体の序文からなる著書であり、死後2年目までに全10巻が揃った。生前の版が確認されていない第8巻以降には、偽作説も唱えられている<ref group = "注釈">特殊な偽作説を唱えるジャック・アルブロンは、第1巻から第10巻までが全て死後の偽作という立場をとっている (cf. Halbronn (2002))。</ref>。
:17世紀に「[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#予兆詩集|予兆詩集]]」「[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#六行詩集|六行詩集]]」が追加されたが、前者は本来暦書類に収録されていた別系統の詩群であり、後者は偽作の疑いが強く<ref group = "注釈">Leoni (1961/1982) では偽作と断定されている。</ref>、信奉者にすら扱いに慎重な者たちがいる<ref>Serge Hutin (1966), ''Les Propheties de Nostradamus'', Pierre Belfond, p.305 ; John Hogue [1997](1999), ''Nostradamus : The Complete Prophecies'', Element, p.20 etc.</ref>。
 
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:王太后(国王の母后)、すなわちカトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた1565年12月22日付の書簡である。八つ折版で8ページからなるが、うち1ページは[[標題紙|扉]]、2ページ分は白紙、[[ノンブル]]のない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、単著として刊行されたとはいえ、分量的には暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。
:内容は前半で、近く開かれる会議についての見通しが語られ、紆余曲折はあっても最終的には誰もが納得する形で、フランスの平和につながると請け合っている。後半では、国王(シャルル9世)が17歳になる年に幸運な出来事が起こりそうなので、その正確な予言のために[[ホロスコープ|星位図]]を送って欲しいという依頼である。[[ピエール・ブランダムール]]はこれについて、1566年6月27日の国王誕生日を見据えたものだとした<ref>Brind'Amour (1993) p.486 </ref>。
:この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は19世紀にまとめて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである<ref>Chomarat (1996) pp.13-14, ラメジャラー (1998a) p.68</ref>。
:文面からは王家の幸福を願うノストラダムスの真摯な姿勢が読み取れるとする評価もある<ref>竹下 (1998) pp.131-132</ref>。
 
261行目:
:Vera loquor, nac falsa loquor, sed munere coeli
:Qui loquitur DEUS est, non ego NOSTRADAMUS
と書かれている。この二行詩はもともと匿名<ref group = "注釈">著者は[[アミアン]]の医師とされるエチエンヌ・ジョベールと、[[ドミニコ会]]修道院長ジャン・ジフル・ド・レシャクとする2つの説がある (Benazra (1990) p.231, n.1) 。</ref>の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』(1656年)に掲載されていたもので、その著者は二行詩が自作のものであると示していた<ref>''Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus'', s.n., s.l., 1656, p.96</ref>。この版画は、1668年パリ版をはじめ、17世紀から18世紀初頭の複数の『予言集』の版で模倣された。
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|[[ファイル:Nostradamus_portrait_ca1690.jpg|150px]]
|1691年頃にリヨンの出版業者アントワーヌ・ベソンによって出版された『予言集』の口絵。肖像画の下には四行詩が添えられている。
:ここで神は我が口をお使いになる、
:汝に真実を告げるために。
:もしも我が予言が汝の心を動かすなら、
:神へと感謝なさるがよい。
この四行詩は、上記の1668年版に掲載されていたラテン語のフレーズに触発されたものという説もある<ref>Bareste (1840), ''Nostradamus'', Maillet, p.54</ref>。四行詩の上には小さくドーデ (Daudet) と署名があり、この版画の作者と考えられている<ref>Chomarat (1976) p.21</ref>。この肖像画は同時代の[[バルタザール・ギノー]]の解釈書などに転用された。