「江戸開城」の版間の差分

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→‎西郷の帰京と方針確定: 重臣酒井孫八郎を家老酒井孫八郎とした。
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勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた<ref>『戊辰日記』([[中根雪江]])慶応四年四月十二日条「此夕容堂君御来話にて、公(春嶽)へ御密語左の如し。去月十日、木戸準一郎、丸山今善に於て、長薩二侯、並びに阿侯([[蜂須賀茂韶]])、肥の長岡左京([[長岡護美]])公子と、各藩の有志とを会合して盛宴を張りたる(中略)畢竟、薩論、徳川公を忌憚する事甚だしく、大逆無道に座して罪死に抵らんことを庶幾せり。準一郎、その不当なるを患苦し、救済の一策を施さんと、先ず諸侯有志を会して和親を結び、再会に及んで此一件を議せんとの心算なりしに、何ぞ図らん、西郷去月十九日、俄然として上京して、東都の御処分を謀るに逢う。三条、岩倉、並びに顧問の輩、参朝して其議に及ぶ。此時、吉之助、徳川公大逆といえども、死一等を宥むべき歟の語気ある故、準一郎其機に投じ、大議論を発し、寛典を弁明し、十分の尽力にて、箇条書等も出来せり。徳川公免死の降伏は、準一郎の功、多に居るとぞ」。</ref>。
 
西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は[[徳川家達|田安亀之助]](徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して[[石高]]は70万石ないし50万石とすることなどを要求した<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、382頁〈東海道先鋒総督橋本実梁朝命ヲ田安慶頼ヘ伝達ノ事〉以下、387頁、「第一条 慶喜自ラ大総督ノ軍門ニ来リ謝罪スヘシ大総督ハ寺門ニ於テ謹慎ヲ命シ御沙汰次第新封地ニ於テ籠居ノ事。[[徳川家康|東照宮]]以来累代勤労之辺ヲ被思食徳川家名被立下相続人体ハ故家茂ヨリ静寛院宮ヘ遺言之次第モ有之旁以田安亀之助へ過被仰附哉之事。新封之事出格之御憐愍ヲ以テ於北国西国等七拾万石又ハ五拾万石位可被下賜哉但於土地者追而御沙汰之事</ref>。しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。第五・七条は原案通り。第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁[[三条実美]]が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した<ref>[[iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、388頁「第六条 妄挙ヲ助ケ候者御憐愍ヲ以テ寛宥之御沙汰相願候儀決而難被聞届候妄挙ヲ助ケ候者ニモ自ラ軽重之差別有之候ヘ共会桑二藩ノ如キハ巨魁ノ最タル者ニ候得者首級ヲ軍門ニ捧ケ候而謝罪不致候半テハ実効之廉相立ツト難申候(後略)」。</ref>。結局は会津・桑名<ref group="注釈">ただし、桑名藩は1月28日に[[桑名城]]を無血開城して(城と所領は尾張藩の管理下に入る)在国藩士は全員謹慎しており、重臣家老[[酒井孫八郎]]からは[[松平定教]](先代藩主の遺児)を新しい藩主に擁して恭順する旨の申入れが行われている。つまり、ここでの桑名はこうした情勢にも関わらず新政府への謝罪・恭順の意思を示さない定敬(及びその近臣)のことになる。この当時の桑名藩本国の動静については、水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)を参照のこと。</ref>に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された<ref>『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、390頁「第六条 罪魁慶喜死一等被宥候上ハ格別之寛典ヲ以テ其他ノ者モ死一等ハ可被宥候間相当之所置致可申出事。但万石以上之儀者書面之通可被仰附会桑ノ如キハ問罪之軍兵被差向降伏ニ於テハ相当之御処置可有之拒戦ニ於テハ速ニ屠滅可有之事」。</ref>。この決定が後の会津戦争に繋がることになる。修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。
 
この間の3月23日、東征軍海軍先鋒[[大原重実]]が横浜に来航し、附属参謀[[島義勇]]([[佐賀藩]]士)を派遣して徳川家軍艦の引き渡しを要求したが、勝は未だ徳川処分が決定していないことを理由にこれを拒否している<ref>「解難録」(『勝海舟全集』)。</ref>。勝としては交渉相手を西郷のみに絞っており、切り札である慶喜の身柄や徳川家の軍装に関して、西郷の再東下より前に妥協するつもりはなかったためである。