「注連寺」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Tourisu-garin (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
24行目:
この寺は、[[833年]]([[天長]]13年)[[空海]]([[弘法大師]])の開山と伝えられ、湯殿山派4ヶ寺<ref>他に本道寺、大日寺、大日坊。ただし現存は注連寺と大日坊のみ。</ref>の中で最も新しい。[[出羽三山]]神社では出羽三山([[羽黒山]]、[[月山]]、[[湯殿山]])の開祖を[[蜂子皇子]](能除大師)としているが、注連寺や大日坊では湯殿山の開祖を空海とし、湯殿山と[[高野山]]を「空海によって定められ清められた、対となる聖地」としている。
[[天正]]9年([[1581年]])から天正10年([[1582年]])にかけて[[最上義光]]は[[新庄市|新庄]]を中心に[[大宝寺氏]](武藤氏)と争
[[出羽三山]]の参道のうち七五三掛口に位置し、注連寺から先が結界とされていたため、出羽三山が[[女人禁制]]の時代は「女人のための湯殿山参詣所」として信仰を集め、大いに賑わった。江戸時代初期には羽黒山の別当だった[[天宥]]([[1592年]]-[[1674年]])によって[[天台宗]]への改宗が図られたが、湯殿山派4ヶ寺が結束して幕府に訴え、湯殿真言を守った経緯がある。鉄門海上人(後述)らの功徳もあり[[1867年]]([[慶応]]3年)には北海道函館に注連寺の出張所(現在の新注連寺)を開くなど、東国にまで広く知られるに至った。しかし、[[明治]]の[[神仏分離]]に伴い湯殿山を含む出羽三山がいずれも神社となると、湯殿山参詣所としての注連寺の役割は急速に失われ、寺は勿論のこと周辺の宿坊も次第に廃れ、住職も去り“破れ寺”への道を歩んだ。
|