「農奴制」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m sty
47行目:
: 貨幣経済の発達による。社会の経済活動が活発化される
 
== 各国ヨーロッパにおける農奴制 ==
=== 西ヨーロッパ地域 ===
[[フランス]]や[[イングランド]]など[[西ヨーロッパ]]では時代が下るにしたがって地代の支払い方法が、労働地代→生産物地代→貨幣地代と変わっていき、中世の終わり頃までには農奴制は解消されたとされる。
 
=== 東ヨーロッパ地域 ===
一方[[エルベ川]]以東の[[東ヨーロッパ]]では、中世末期において封建領主が農民の自由な移動を禁じるなど、農民に対する支配を再び強化させた。大航海時代以降は、西欧で商工業の発展が進む中、東欧は西欧に対する穀物供給地としての役割を果たした。こうして、西欧経済と結びつけられた形で、農奴制的な状況が創出された。
 
==== オーストリア ====
18世紀後半、東欧各国で[[啓蒙専制君主]]が出現して近代化政策を推進した。[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]では皇帝[[ヨーゼフ2世]]が、[[1781年]]に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には[[1848年革命]]によって農奴制は廃された。
 
==== プロイセン ====
[[プロイセン]]の農民は、王領地の農民、貴族の[[農場領主制]](グーツヘルシャフト)下におかれた世襲隷属民、西欧的な自立性の高い農民の3つに類型化できる。[[1807年]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]に敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で、これらの農民に対する土地売買の自由などが規定され、職業選択の自由など人格的自由が確立した。
 
これらの改革は地主本位のものであり、農民は人格的自由は手に入れたものの、土地の多くは地主に与えられた。地主層は労働力を隷属農民から農業労働者に切り替え、資本主義経済に適応していった。こうしたことから、プロイセンでは土地貴族([[ユンカー]])がのちまで政治、社会の中心となった。
 
==== ロシア ====
{{main|ロシアの農奴制}}
中世のロシアでは、秋の「[[聖ユーリーの日]]」の前後2週間に限って合法的な移転が認められた。ただし、自己の領主に対して負債を抱えている場合には権利を行使できなかったため、実質上土地に拘束された状態であった。ところが、[[15世紀]]に入ると富裕な領主が負債を肩代わりする代わりに農民を自己の領地に引き抜くようになったことで中小領主の農地経営が圧迫されたことが社会問題化した。15世紀末に[[イヴァン3世]]が農民の移転を制限した法典(1497年法典)を定めると、のちの[[イヴァン4世]]も同様の法令を定め、領主による逃亡農民に対する無期限の捜索権と引き渡しの権利を認めるようになった。最終的には、[[17世紀]]に成立した[[ロマノフ朝]]の初期([[1649年]])に制定された[[会議法典]]によって、農奴制の立法化が完了した。歴代皇帝は、[[ピョートル1世]]にみられるように、近代化を推進する財源を確保する必要性から(農奴制自体は近代化から逆行するが)農奴制を強化していった。しかし、民衆は激しく抵抗してより豊かな南部などへの逃亡を図るものも多かった。更に南部の[[ドン・コサック軍]]は慣習法をたてに逃亡者の引き渡しに応じなかったために、彼らの軍事力に依存する部分が多かったロマノフ朝を悩ませる原因となった<ref>[[#土肥1996|土肥(1996)]]</ref>。[[1856年]]の[[クリミア戦争]]における敗北によって近代化の必要性を痛感した[[アレクサンドル2世]]が、[[1861年]]に[[農奴解放令]]を出したことで農奴制は廃された。
 
== 南北アメリカ地域 ==
{{Seealso|奴隷貿易#大西洋奴隷貿易|アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|プランテーション#人道上の問題|南北戦争の原因}}
15世紀に始まる大航海時代から19世紀前半にかけて、イギリスを中心としたヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸を結んで展開された([[三角貿易]])。当初は、西インド諸島やブラジルでのプランテーション経営の労働力として徴用され、やがてイギリスが[[バージニア植民地]]に入植するとアメリカ本土、特に南部で農奴や西部では金鉱採掘の労働力として利用された。アメリカ本土では、[[1865年]]の[[アメリカ合衆国憲法]]修正第13条の成立で終わったことになっている。
 
== アジア地域 ==
{{Seealso|奴隷#アジアの奴隷制}}
アジアの農耕社会の奴隷は、一般衆民とは労働の差異に関する制約がほとんどで農奴に近いが、欧州に比べて身分が確立(あるいは保証)されていた。
=== チベット ===
中国による占領以前にチベットに潜入した[[河口慧海]]・[[木村肥佐生]]・[[西川一三]]等により、チベット社会における農奴制をはじめとする詳細な報告がなされている。これらの報告によると、チベット人の主食である小麦を生産していたのは少数の貴族が所有していた[[荘園]]であり、その労働力は人間として扱われない農奴であったこと、これら農奴が現実の生活に対して疑念を抱かないように、輪廻転生と来世への因果の恐怖で信者を拘束していたことが記録されてい<ref>{{Cite |和書 |author = 河口慧海 |title = 西蔵旅行記 |date = 1904 |publisher = 博文館}}</ref><ref>{{Cite |和書 |author = 西川一三 |title = 秘境西域八年の潜行 |date = 1967 |publisher = 芙蓉書房}}</ref>。また、[[チベット仏教]]では、農奴の頭蓋骨・皮・腸などの人体器官を儀式に用いていたことも報告されている<ref>human-rights-of-tibet [http://factandtruth.wordpress.com/human-rights-of-tibet/]</ref><ref>The Life of a Tibetan Slave [http://www.revcom.us/a/firstvol/tibet/tibetsd.htm]</ref>。
 
=== イスラム社会 ===
[[ファイル:GleyreFellahs.jpg|thumb|200px|フェラー]]
{{Seealso|イスラームと奴隷制}}
 
農奴に相当する物として[[フェラヒン]]({{lang-ar| فِلاحين }})がある。現代における[[アラビア語]]では普通に農民の意味として用いられているが、日本や欧米では「フェラー」([[:en:Fellah|Fellah]])としてイスラム社会における農奴あるいは[[小作人]]の意味で用いられている。
 
75 ⟶ 86行目:
イスラム社会では法制度として農奴制は明確な廃止をされないまま現代に至るため、欧米のように明確に農民と農奴が区別されることがなく曖昧なままである。
 
=== 農奴制が公式に廃止された年月日 ===
* [[ワラキア]]:[[1746年]]
* [[モルダビア]]:[[1749年]]