「亀山天皇」の版間の差分

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文永4年(1267年)には皇后が皇子・世仁([[後宇多天皇]])を生み、翌5年後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てた。文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御し、[[治天の君]]の継承と、[[皇室]]領[[荘園]]の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天の君の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされたため幕府に問い合わせたところ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い返し、大宮院による内意は亀山天皇であったとする証言から亀山天皇親政と定まる。文永11年([[1274年]])1月、亀山天皇は皇太子世仁親王に譲位して[[院政]]を開始。亀山上皇は[[院評定制]]の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「[[徳政]]興行」と評された。
 
また、後深草上皇の血統([[持明院統]])とは別に、自らの血統([[大覚寺統]])の繁栄に力を注ぎ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う[[両統迭立]]の端緒となる。後深草上皇が出家の意向を示すと、幕府は持明院統の冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁([[伏見天皇]])の立太子を推進。建治元年(1275年)に熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる。続いて弘安9年(1287(1286年)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子邦治([[後二条天皇]])が親王宣下された。
 
だが、亀山上皇は[[関東申次]]の[[西園寺実兼]]との不和に加えて、[[霜月騒動]]で失脚した[[安達泰盛]]と親しかった事が幕府を刺激する。このため弘安10年(1287年)10月には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる。さらに、鎌倉では[[鎌倉将軍]]の[[惟康親王]]が廃されて後深草上皇皇子の[[久明親王]]が将軍になり、持明院統に有利な情勢が続いた。