「石見銀山」の版間の差分

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→‎石見銀山の発見: http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20070628000436 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95#.E5.8F.A4.E4.BB.A3
m (→‎石見銀山の発見: http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20070628000436 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95#.E5.8F.A4.E4.BB.A3)
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は[[鎌倉時代]]末期の[[1309年]]([[延慶 (日本)|延慶]]2年)に周防の[[大内弘幸]]が石見に来訪して[[妙見菩薩|北斗妙見大菩薩]]([[北極星]])の託宣により[[銀]]を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=豊田有恒|year=2010|title=世界史の中の石見銀山|publisher=祥伝社新書|isbn=9784396112028|pages=pp.31-32}}</ref>。
 
その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは[[博多]]の大商人、神谷寿貞(博多三傑・[[神屋宗湛]]の曽祖父。姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている<ref>大田市三十周年記念誌編さん事務局編『大田市三十年誌』(53頁~54頁)1983年</ref>。海上から山が光るのを見た神谷は<ref>これは山頂に露頭した自然銀が月光に反射したものであると考えられている。(豊田p.36)</ref>領主[[大内義興]]の支援と[[出雲国]]田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て[[1526年]]([[大永]]6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した<ref>{{Cite book|和書|author=豊田有恒|year=2010|title=世界史の中の石見銀山|publisher=祥伝社新書|isbn=9784396112028|pages=p.34}}</ref>。義興の死後、[[大内義隆]]が[[九州]]経営に気を取られている間、[[1530年]]([[享禄]]3年)に地方領主・[[小笠原長隆 (石見小笠原氏)|小笠原長隆]]が銀山を奪ったが、3年後に再び[[大内氏]]が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。[[1533年]]([[天文 (元号)|天文]]2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀[[精錬|精錬技術]]である[[灰吹法]]<ref>灰吹法の伝播経路は、中国由来説と朝鮮由来説がある。前者は田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)など、後者は[[小葉田淳]]『日本鉱山史の研究 』(岩波書店、1968年)など。</ref>に日本で初めて成功しより精錬された<ref>『大田市三十年誌』(54頁)</ref>。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から[[鉱石]]のまま積み出され博多湊などで取引された。灰吹法が広まることにより、[[一酸化鉛|酸化鉛]]の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の[[鉛中毒]]を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた者は尾頭付きの[[鯛]]と[[赤飯]]で長寿の祝いをしたほどであった。大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の[[寺院]]が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。
==== 銀山争奪 ====
[[1537年]](天文6年)、出雲の[[尼子経久]]が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に[[尼子氏]]が[[石見小笠原氏]]を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。[[大内義隆]]の死後は、[[毛利元就]]が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1556年([[弘治 (日本)|弘治]]2年)[[忍原崩れ]]、1559年([[永禄]]2年)[[降露坂の戦い]]、1561年(永禄4年)~1562年(永禄5年)の[[雲芸和議]]をへて最終的に[[毛利氏]]が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には[[吉川元春]]の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた<ref>仁摩町誌編纂委員会編『仁摩町誌』(169頁)1972年</ref>。同年12月には石見銀山を[[朝廷]]の[[御料所]]として献呈する。その後、[[1584年]]([[天正]]12年)に毛利氏が[[豊臣秀吉]]に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の軍資金にも充てられた<ref>『仁摩町誌』(169頁)</ref>。
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