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== 解説 ==
[[本紀]]5巻、志30巻、[[列伝]]50巻からなる。特に「[[経籍志]]」が名高い。[[唐]]の[[魏徴]]と[[長孫無忌]]らが唐の[[太宗 (唐)|太宗]]の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には[[顔師古]]や[[孔穎達]]らが参加した。[[636年]]([[貞観 (唐)|貞観]]10年)には魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成する。し、第3代[[高宗 (唐)|高宗]]に代替わりした後の[[656年]]([[顕慶]]元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入が行わ
 
=== 隋書の十志 ===
『隋書』の最大の特徴は、この十志30巻である。本紀および列伝55巻が『[[漢書]]』に始まる断代史の体裁をとっているのに対し、この十志『[[史記]]』や『[[南史]]』、『[[北史]]』と同様の通史であるからであとなっている。すなわち、本紀および列伝の完成後に出された太宗が命じたは、[[梁 (南朝)|梁]]・[[陳 (王朝)|陳]]・[[斉 (北朝)|北斉]]・[[北周]]・隋の5つの王朝に対する志の編纂であったのであるそれはとりも直さず、既に完成していた各朝の正史に志が存在しなかったことに起因しているのであるが、その一方で[[北魏]]と[[宋 (南朝)|宋]]以来、隋の統一までを一つの[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]という一つの時代と見る今日の[[六朝]]という呼ぶ後世の視点とは異なり、当時の視点での近現代が、南北の二極対立から再び三極の鼎立にいたり、隋が統一を果たすという時代見方であったことを如実に表している。よって、この十志だけを独立して「'''五代史志'''」と呼び習わしていた。また、ここに断代史であって通史でもあるという正史が成立したのである
 
「経籍志」は、第32巻志27から第35巻志30にあたる。[[中国]]の[[正史]]に付されたものとしては、『漢書』「[[芸文志]]」に次ぐものであった。
 
「律暦志」には、宋[[斉 (南朝)|斉]]代の[[祖沖之]]([[429年]] - [[500年]])が、[[円周率]]を3.1415927の位まで計算していたことを記しているが、これは、『[[南斉書]]』の本伝にも見えない貴重な記録である。[[ヨーロッパ]]において初めてこの桁数まで計算できが果たされたのは[[16世紀]]のことであった。
 
=== 東夷伝に関する記述 ===
『隋書』の「[[東夷伝]]」と呼ばれるものは、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國([[倭国]] [[ヤマト王権|ヤマト政権]])とその王[[多利思比孤|多利思北孤]]や[[朝鮮半島]]にあった[[高句麗]]、[[新羅]]、[[百済]]と琉求について記述されている。特に[[高句麗]]に関しては「[[東夷伝]]」の最初に記述されている。その順番は[[高句麗]]、[[百済]]、[[新羅]]、靺鞨、琉求、[[倭国]]である。
 
俀(倭)に関する記述では、腕へ刺青を行っていたという風俗に関するもの、また[[聖徳太子]]が仏法僧を隋へ留学させたことなどが言及されている。