「頼三樹三郎」の版間の差分

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父・山陽をはじめ、[[1840年]]からは[[大坂]]の儒学者・[[後藤松陰]]や[[篠崎小竹]]らに学んだ。[[1843年]]からは[[江戸]]で儒学を学んだが、[[徳川将軍家]]の[[菩提寺]]である[[寛永寺]]の[[灯籠|石灯籠]]を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には[[尊皇]]運動に感化されており、[[江戸幕府]]の[[朝廷]]に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、[[東北地方]]から[[蝦夷地]]へと遊歴し、[[松前藩]]で探検家の[[松浦武四郎]]と親友となった。[[1849年]]には京都に戻り、再び勤王の[[志士]]として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
 
[[1853年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]が来航して一気に政情不安や[[尊皇攘夷]]運動が高まりの兆しを見せ始め、[[1858年]]には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と[[徳川慶喜]](一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、[[大老]]の[[井伊直弼]]から[[梅田雲浜]]・[[梁川星巌]]・[[池内大学]]と並ぶ危険人物の一人と見なされた。同年、幕府による[[安政の大獄]]で捕らえられて、江戸の阿部家[[備後福山藩|福山]][[藩邸]]において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・[[関藤藤陰|石川和助]]は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸[[伝馬町牢屋敷]]で[[橋本左内]]や[[飯泉喜内]]らとともに斬首された。墓は京都[[円山公園]]の裏にある[[長楽寺 (京都市)|長楽寺]]と[[松蔭神社]]にある。
 
== 詩人 ==