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はじめ[[浅井氏]]麾下の[[阿閉貞征]]に仕え、貞征の娘を妻とした。「'''槍の勘兵衛'''」と称される槍の名手であり、[[摂津国]][[吹田城]]攻めで一番首を挙げ、[[織田信長]]から直接称賛されたほどで、阿閉家の精鋭である母衣衆の一人であった。
 
後に辞して[[天正]]10年([[1582年]])ごろより[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕え、2,000石の扶持をもって、秀吉の養子である[[羽柴秀勝]]付きとなった。[[山崎の戦い]]や[[賤ヶ岳の戦い]]でも活躍し、[[石田三成]]家臣の[[杉江勘兵衛]]、[[田中吉政]]家臣の[[辻重勝|辻勘兵衛]]と並んで「三勘兵衛」と評されたものの、天正13年([[1585年]])に秀勝が死去すると、それに伴い浪人した。

なお、[[江戸時代]]中期の『[[常山紀談]]』では、勘兵衛は「三勘兵衛」の他に、後に[[谷衛友]]、[[小早川秀秋]]の家老・[[稲葉正成]]、[[福島正則]]の家臣・[[可児吉長|可児才蔵]]、[[石田三成]]の客将・[[中黒道随]]、[[池田輝政]]の家臣・[[丹羽山城助兵衛]]、[[辻小作]]と共に立身を誓い合った「[[天下七兄弟]]」と称されるうちの一人ともされる。
 
次に[[豊臣秀次]]の家老[[中村一氏]]に3,000石で仕えた。天正18年([[1590年]])、秀吉による[[小田原征伐]]において中村勢の先鋒として働き、伊豆[[山中城]]攻めにおいては、秀次軍の先鋒が中村勢であり、その先頭切って一番乗りを果たした。秀吉から「捨てても1万石は取るべき」と賞賛されたが、一氏からの恩賞は、もとの知行の倍の6,000石に過ぎず、これに不満を持って再び浪人した。