「ジョージ6世 (イギリス王)」の版間の差分

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1909年に[[オズボーン・ハウス|王立オズボーン海軍兵学校]]に入学して、軍人教育を受け始めた。1911年に行われた兵学校での卒業試験で最下等の成績だったが、そのまま[[海軍兵学校 (イギリス)|王立ダートマス海軍大学]]へと進学している<ref>Bradford, pp. 41–45; Judd, pp. 21–24; Rhodes James, p. 91</ref>。1910年5月6日にエドワード7世が死去し、王太子である父ジョージがジョージ5世として国王に即位した。これにより、アルバートの王位継承権は兄エドワードに次いで2位となった<ref>Judd, pp. 22–23</ref>。
 
[[ファイル:The Independent Air Force Dinner - Prince Albert, Trenchard and Courtney.jpg|thumb|250px|1919年に、イギリス空軍で催された会食。左からアルバート、後に初代トレンチャード子爵、空軍元帥となるヒュー・トレンチャード[[:en:Hugh Trenchard, 1st Viscount Trenchard<!-- [[:ja:ヒュー・トレンチャード]] とリンク -->|en:Hugh Trenchard]]、後に空軍大将となるクリストファー・コートニー ([[:en:Christopher Courtney]])]]
アルバートは1913年の上半期を、装甲巡洋艦カンバーランド ([[:en:HMS Cumberland (1902)]]) に乗船し、[[西インド諸島]]近海、カナダ東沿岸での訓練航海で過ごしている<ref>Judd, p. 26</ref>。1913年9月15日に、海軍士官候補生として戦艦[[コリンウッド (戦艦)|コリンウッド]]に乗り組み、[[地中海]]で3カ月間の訓練を受けた。このときにはアルバートがイギリス王子であることを隠すために「ジョンソン」という名前で呼ばれていた<ref>Judd, p. 28</ref>。アルバートは翌年に勃発した[[第一次世界大戦]]に従軍している。コリンウッドに乗り組んだアルバートは、第一次世界大戦で最大の海戦であり、最終的な勝敗の帰趨が不明瞭となった、対ドイツ帝国海軍との[[ユトランド沖海戦]]に参加し、砲塔担当の士官として殊勲報告書 ([[:en:Mentioned in Despatches]]) にその名が記載された。その後、アルバートは[[消化性潰瘍|十二指腸潰瘍]]を患って1917年に手術を受けたため、以降の戦闘には参加することが出来なかった<ref name=Bradford55>Bradford, pp. 55–76</ref>。1918年2月にアルバートは、クランウェル基地 ([[:en:RAF Cranwell]]) に設立されていた[[イギリス海軍航空隊]]のチャージ・オブ・ボーイズ連隊付き士官に任命された<ref name="cranwell">{{citation |url=http://www.raf.mod.uk/rafcranwell/aboutus/collegehistory.cfm |title=RAF Cranwell – College History|publisher=Royal Air Force|accessdate=22 April 2009}}</ref>。その2カ月後に[[イギリス空軍]]が正式に発足し、クランウェル基地の所属が海軍から空軍へと移された。このときにアルバートもイギリス海軍からイギリス空軍へと転籍している<ref name=Bradford55/>。アルバートは、クランウェル空軍基地の第4飛行戦隊ボーイズ・ウィングの指揮官に任命され、1918年8月までこの任務に就いていた<ref name="cranwell"/>。また、アルバートは、飛行操縦資格を正式に取得した最初のイギリス王族でもあった<ref>Judd, p. 45; Rhodes James, p. 91</ref>。大戦終結間際の数週間は、フランスの[[ナンシー]]に置かれた、イギリス空軍独立戦略爆撃隊 ([[:en:Independent Air Force]]) の司令部参謀としての任務に就いていた<ref>{{citation |last=Boyle |first=Andrew |title=Trenchard Man of Vision |year=1962 |publisher=Collins |location= St. James's Place London |page=360|chapter=Chapter 13}}</ref>。第一次世界大戦の終結によって、1918年11月に独立戦略爆撃隊は解体されたが、アルバートはそのままイギリス空軍参謀としてヨーロッパ大陸にとどまり、イギリス本国へ帰還したのは、その2カ月後のことだった<ref>Judd, p. 44</ref>。
 
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1939年9月にイギリスと、アイルランド自由国以外のイギリス自治領は、[[ナチス・ドイツ]]に宣戦布告した<ref>Judd, pp. 171–172; Townsend, p. 104</ref>。ジョージ6世とエリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による[[ザ・ブリッツ|大空襲]]にさらされても、ロンドンにとどまることを選択した。公式には、大戦を通じて国王夫妻は[[バッキンガム宮殿]]に居住していたとされているが、夜間には[[ウィンザー城]]で過ごすことのほうが多かった<ref>Judd, p. 183; Rhodes James, p. 214</ref>。最初にロンドンが爆撃されたのは1940年9月7日で、このときには[[テムズ川]]北側の[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イースト・エンド]]を中心に、およそ1,000人の民衆が犠牲になった<ref>{{citation|last=Arnold-Forster|first=Mark|year=1983|origyear=1973|title=The World at War|location=London|publisher=Thames Methuen|isbn=0-423-00680-0|page=303}}</ref>。9月13日には二発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった<ref>{{citation |last=Churchill |first=Winston |title=The Second World War |publisher=Cassell and Co. Ltd |year=1949 |volume=II |page=334}}</ref>。王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである<ref>Judd, p. 184; Rhodes James, pp. 211–212; Townsend, p. 111</ref>。国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と貧困を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、ルーズベルト大統領夫人[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]も、バッキンガム宮殿滞在中に食事に配給物資が出されたこと、風呂の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している<ref>{{citation|last=Goodwin|first=Doris Kearns|title=No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II|location=New York|publisher=Simon & Schuster|year=1994|page=380}}</ref>。1942年8月には弟のケント公ジョージが、軍務中に死去した<ref>Judd, p. 187; Weir, p. 324</ref>。
 
1940年にチェンバレンに代わって、保守党の[[ウィンストン・チャーチル]]が首相となった。しかしながら、ジョージ6世が首相に相応しいと内心で思っていたのは[[外務・英連邦大臣]]となったハリファックス子爵[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|エドワード・ウッド]]だった<ref>Judd, p. 180</ref>。チャーチルが、初代[[ビーヴァーブルック男爵]][[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|マックス・エイトケン]]を[[航空機生産大臣]] ([[:{{Lang-en:|Minister of Aircraft Production]]}}) に任じたときには、ジョージ6世は当初失望していたが、ジョージ6世とチャーチルは徐々に「イギリス近現代史上、もっとも個人的な友情で結ばれた国王と首相」といわれるほどの絆を結んでいった<ref>Rhodes James, p. 195</ref>。1940年9月からの半年間、二人は毎週水曜日に4時間を共に過ごし、昼食をとりながら、戦争について秘密裏に腹蔵なく語り合った<ref>Rhodes James, pp. 202–210</ref>。
第二次世界大戦の間中、ジョージ6世とエリザベスは爆撃を受けた場所、軍需工場などイギリス各地を訪問し、国民の士気を鼓舞し続けた。さらにジョージ6世は、イギリス本国を離れて外国へ遠征している部隊も慰問した。1939年12月にフランス、1943年6月に北アフリカと[[マルタ]]、1944年6月に[[ノルマンディー]]、1944年7月に南イタリア、1944年10月に[[ネーデルラント]]地域を、それぞれ訪れている<ref>Judd, pp. 176, 201–203, 207–208</ref>。国王夫妻は国民から高い敬意を受け、その不屈の姿勢とともに、国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在となっていった<ref>Judd, p. 170</ref>。1945年のドイツが降伏した[[ヨーロッパ戦勝記念日]]のお祭り騒ぎの中、バッキンガム宮殿前に集った国民が「王よ、お姿を! (We want the King!)」と叫んだ。ミュンヘン協定を締結したときのチェンバレンのときと同じく、ジョージ6世とエリザベスはチャーチルとともに宮殿のバルコニーに姿を見せ、国民からの喝采を受けた<ref>Judd, p. 210</ref>。1946年1月にロンドンで開催された第一回[[国際連合]]会議で、ジョージ6世は公式演説を行い、「男女の別、国の大小に関わらず、信念はみな平等である」と断言している<ref>Townsend, p. 173</ref>。
 
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*[[スウェーデン]]:{{仮リンク|熾天使勲章|sv|Serafimerorden}}([[1937年]])
*[[タイ王国]]:[[白象勲章]]・[[大チャクリー勲章]]([[1938年]])
*[[デンマーク]]:{{仮リンク|[[象勲章|da|Elefantordenen}}]]、[[ダンネブロ勲章]]
*[[日本]]:[[大勲位菊花大綬章]]([[1937年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1937年]])
*[[ネパール]]:{{仮リンク|ラヤーニー勲章|en|Order of Ojaswi Rajanya}}