「カール・ハウスホーファー」の版間の差分

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{{基礎情報 軍人
[[ファイル:KarlHaushofer.jpg|thumb|200px|カール・ハウスホーファー (1910年)]]
|氏名 = カール・エルンスト・ハウスホーファー
|各国語表記 = Karl Ernst Haushofer
|箱サイズ =
|生年月日 = [[1869年]][[8月27日]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1867|8|27|1946|3|13}}
|画像 = KarlHaushofer.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 1920年頃
|渾名 =
|生誕地 = {{BAY}} [[ミュンヘン]]
|死没地 = {{DEU1945}}<br />[[File:Flag of Bavaria (striped).svg|25px]] [[バイエルン州]] [[ペール]]
|所属組織 = [[File:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ陸軍|ドイツ帝国陸軍]]({{仮リンク|バイエルン王国陸軍|de|Bayerische Armee}})
|軍歴 =
|最終階級 = [[少将]]
|除隊後 = [[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]教授
|墓所 =
|署名 =
}}
'''カール・エルンスト・ハウスホーファー'''(Karl Ernst Haushofer, [[1869年]][[8月27日]] - [[1946年]][[3月13日]])は[[ドイツ]]の[[地政学]]者。
 
== 経歴 ==
===軍歴===
1869年8月27日、[[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]にて出生。[[1887年]]、[[ドイツ帝国]]の[[バイエルン王国]](1871年にドイツ帝国の領邦となるが、王国を維持)陸軍第一野砲連隊「{{Lang|de|Prinzregent Luitpold}}」に入営。ドイツ[[陸軍士官学校]]、野砲学校を経て{{lang仮リンク|de|[[:de:Preußische Kriegsakademie|Preußische Kriegsakademie]]}}(ドイツ帝国[[陸軍大学校]])|de|Preußische Kriegsakademie}}の[[参謀]]課程を修める。1896年には[[ユダヤ人]]の娘マルタと結婚し、二人の子をもうけた。[[1903年]]より同陸軍大学校にて[[軍事史|戦史(軍事史)]]を教える。
 
[[1908年]](明治41年)から[[1910年]](明治43年)まで、[[日本]]のドイツ[[大使館]]付[[武官]]として勤務。[[1911年]]から[[1913年]]に博士論文「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」をまとめ、{{Lang|de|Doktor der Philosophie}}(日本では[[哲学博士]]に相当)を取得。[[第一次世界大戦]]には[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に従軍し[[:de:Generalmajor|{{Lang|de|Generalmajor}}]](ドイツ陸軍[[少将]]に昇進。
 
===ヒトラーとの出会い===
[[ファイルFile:KarlHaushofer RudolfHess.jpg|thumb|200px240px|カール・ハウスホーファー (1910年)とヘス]]
戦後は[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは[[地政学]]の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子として[[ルドルフ・ヘス]]と知り合い、1921年には[[アドルフ・ヒトラー]]と出会った。1923年の[[ミュンヘン一揆]]の際には逃亡するヘスを一時匿い、[[ランツベルク刑務所]]に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、[[フリードリヒ・ラッツェル]]などの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた<ref>1945年10月17日、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言、[[ジョン・トーランド]]著 [[永井淳]]訳「アドルフ・ヒトラー」([[集英社文庫]])第一巻、393-394p ISBN 978-4087601800</ref>。
 
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[[1939年]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]が運営する、[[ドイツ民族対策本部]](ドイツ国籍を有しない国外ドイツ人との連携機関)に籍を置く。
 
[[1941年]]5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論み[[メッサーシュミット Bf110]]で渡英した際には、事前にヘスと会っていたこと、息子の[[{{仮リンク|アルブレヒト・ハウスホーファー|en|Albrecht Haushofer|label = アルブレヒト]]([[:en:Albrecht Haushofer|en]])}}がイギリスにおける接触先として[[ハミルトン公]][[ダグラス・ダグラス=ハミルトン (第14代ハミルトン公爵)|ダグラス・ダグラス=ハミルトン]]を紹介していたことが問題視された。そして同年[[独ソ戦]]が開始されたことから、地政学上の見地から「ソ連との関係を強めるべき」と主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。さらにアルブレヒトが1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺計画]]に関わっていたことで[[秘密警察]]の監視下に入った。アルブレヒトは逃走していたが、同年12月に逮捕された。[[1945年]]4月末、ベルリン陥落の直前に処刑された。
 
===死去===
[[File:Hartschimmel, Haushofer Kapelle-HB-1.jpg|thumb|240px|ハウスホーファーの墓]]
第二次世界大戦期を通じて[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。[[ドナルド・ノートン]]はこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才」「(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後の[[ニュルンベルク裁判]]でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であった事などから見送られた<ref>シュパング、2001年、4p</ref>。
 
敗戦後の[[1946年]]に妻とヒ素を飲んで服毒自殺を図る。その際ハウスホーファーはヒ素では死にきれず、割腹自殺に切り替えて死去。理由などは不明である。
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日本については、日本に[[ヨーロッパ]]におけるドイツの役割を与えた著作『太平洋の地政学』(''Geopolitik des pazifischen Ozeans'') を残した。日本滞在中に[[日本語]]はもちろん、[[朝鮮語]]や[[中国語]]を修め、広く[[アジア]]を旅し[[ヒンズー教]]や[[仏教]]の経典、また[[アーリア民族]]が多く住む北[[インド]]や[[イラン]]にも詳しく、アジア[[神秘主義]]の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。
 
[[カール・ハウスホーファー|カール・エルンスト・ハウスホーファー]]は、以下を主張した。
 
[[カール・ハウスホーファー|カール・エルンスト・ハウスホーファー]]は、以下を主張した。
#ラッツェルの「[[レーベンスラウム]]」(生存圏)と国家拡大理論
#チェーレンの「[[アウタルキー]]」(経済自足論)