「文明開化」の版間の差分

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== 概要 ==
「文明開化」という言葉は[[福澤諭吉]]が『[[文明論之概略]]』明治8年([[1875年]])の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、更には既存文化を西洋風にアレンジしたものなど多岐に渡り、過渡期的には熱病の如き[[流行]]となって様々な社会階層に受け入れられていった。
 
この時代を象徴する言葉として有名なものに「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という言葉<ref group="注釈">当時の流行り歌([[都々逸]])に由来し、この言葉に連なる言葉には「ちょんまげ頭を叩いてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする」と「総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする」というのがある。</ref>があり、[[散切物]]と呼ばれる[[歌舞伎]]芸能の新形態発生などといった現象がみられ、[[仮名垣魯文]]の『安愚楽鍋』にある「牛鍋食わぬは開化不進奴」(現代風に意訳すれば「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」)といった食文化の変化などが、[[大衆]]の生活にも取り入れられていった様子が伺える(後述)。
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明治新政府が推進した[[殖産興業]]や[[富国強兵]]・[[脱亜入欧]]などの一連の政策の推進や西洋建築(→[[西洋館]]・[[擬洋風建築]])、散髪、洋装、[[洋食]]などの奨励がみられる。ただこういった西洋化は都市部や一部の知識人に限られた西洋文明の摂取でもあったとも指摘されており、地方町村部では場所により[[昭和]]に入る頃まで明かりといえば[[菜種油]]で[[行灯]]を灯し、[[郵便]]や[[電信]]など西洋化の恩恵は中々届かず、また長らく江戸後期の伝統や風習が続くなど、生活の変化は遥かに緩やかなものであった。また、地方では新政府の方針に従い県庁主導で従来の生活文化や民俗風習の排除が行われ、文明開化政策の影響で縮小や途絶した民俗風習も多い。
 
なお急速な西洋化の一端には、西洋列強国が当時盛んに[[植民地]]経営で、莫大な富を[[アジア]]諸国から吸い上げていたことに対する危機感も見出される。この中では、上に挙げた富国強兵の一環で西洋[[軍事技術]]の導入も盛んに行われ、軍隊では兵隊の腕力や体力を強化する目的で、提供される[[食事]](軍隊食)までもが西洋化された。ただ当時発足したばかりの[[日本軍]]は地方農村部などの次男・三男を集めた集団であり、[[飯|米飯]]や[[日本食]]で育った彼らの中には、あまりに異質な西洋の料理に対して拒否感を示す者も見られた。このため海軍などでは米飯と[[カレー]]を組み合わせる・[[肉じゃが]]のように[[醤油]]味の折衷料理を開発するなど工夫を凝らした。[[カレーライス]]は後に[[海軍カレー|横須賀海軍カレー]]として、また肉じゃがのような料理も軍港周辺部へと広がっていき、時代を下って昭和時代にもなると、一般的な家庭の味として広く受け入れられている。
 
== 文明開化のキーワード ==<!---明治10年くらいまで?--->