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'''坂本 義辰'''(さかもと よしたつ、生没年不詳)は、[[江戸時代]]後期の[[陸奥国]][[会津藩]]で[[藩主]]家[[会津松平氏|会津松平家]]家臣。[[諱]]は義辰。[[仮名 (通称)|通称]]は学兵衛。父は[[坂本義馮]](学兵衛。諱は義応とも)
 
== 経歴 ==
祖父[[坂本義邵]]の頃に藩主[[松平正容]]の招きを受けて会津藩士になったという。
 
[[宝永]]年間から[[正徳 (日本)|正徳]]年間までの松平正容の治世下の会津藩[[留守居|城使]]に坂本学兵衛、[[宝暦]]5年([[1755年]])の御[[用人]]に坂本学兵衛」の名が見られるが、これらは義辰の先祖にあたる。
 
[[寛政]]3年([[1791年]])に会津藩を通して[[江戸幕府]][[老中]]の[[松平定信]]に自身が[[室町幕府]]最後の[[征夷大将軍|将軍]]である[[足利義昭]]の子で[[近江国]]坂本で義昭近臣の[[一色藤長]]に養育されたという[[一色義喬]]の子孫であるという由緒書を提出する。
 
子孫は[[松平容敬]]の御用人をつとめる。また[[幕末]]の子孫の[[坂本義続|義続]](右兵衛)は[[戊辰戦争]]で白河口方面の主将となったが戦傷死した。その子[[坂本義劉|義劉]](栄助)の代で会津から[[栃木県]][[足利市|足利]]へ移ったという。
 
== 参考文献 ==
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{{DEFAULTSORT:さかもと よしたつ}}
[[Category:会津藩の人物]]
[[Category:将軍足利一色氏]]
[[Category:18世紀年不明]]
[[Category:没年不明]]