「後小松天皇」の版間の差分

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称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子[[小川宮]]も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍[[足利義持]]と協議、後継者として崇光流の[[伏見宮貞成親王]]が有力視され、一時は後小松の[[猶子]]として[[親王宣下]]された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は[[出家]]して皇位継承を断念した。[[正長]]元年([[1428年]])にいよいよ称光が危篤となると、6代将軍[[足利義教]]の仲介で貞成の子息彦仁を[[猶子]]とし、[[後花園天皇]]として[[即位]]させた。
 
[[称光天皇|称光]]・[[後花園天皇|後花園]]の2代にわたり[[院政]]を行い、この間[[永享]]3年([[1431年]])に[[出家]]している。ただし、この後小松が永享元年(1429年)10月に出家の際に意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある<ref>石原比位呂「足利義教と北朝天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。
 
永享5年([[1433年]])[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]に[[崩御]]。宝算57。