「第四次対仏大同盟」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Vaamwater (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
25行目:
10月9日、プロイセン軍はフランスへ宣戦布告し、15万の兵力をもって[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]へ侵攻した。ナポレオンは直ちに20万の兵力をもって[[バイエルン州|バイエルン]]から[[ザクセン州|ザクセン]]方面へ向けて進撃。10月10日、{{仮リンク|ザールフェルトの戦い|en|Battle of Saalfeld}}で[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]軍団がプロイセン軍先鋒のルイ・フェルディナント親王を戦死させた。
 
プロイセン軍本も、10月14日の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]で壊滅的打撃を受けた。[[イェーナ|イエナ]]方面ではナポレオン率いるフランス軍主力がプロイセン軍の後衛部隊を撃破。[[アウエルシュタット]]方面ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世と[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ブラウンシュヴァイク公]]に率いられたプロイセン軍主力が、2倍の兵力をもって[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]軍団に攻撃をかけるが撃退された。
 
フランス軍は敗走するプロイセン軍を追撃し、10月25日、プロイセンの首都[[ベルリン]]を制圧。10月27日にナポレオンもベルリンへ入城した。開戦からわずか19日後の出来事であった。[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王)の墓所を訪れたナポレオンは、「彼が生きていれば我々は今日ここにいなかっただろう」と語ったという。11月6日、[[マクデブルク]]の守備隊が降伏し、事実上、国内のプロイセン軍は消滅した。