「通天閣」の版間の差分

1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちたが<ref name = hitomachi2>『通天閣 人と街の物語』 p.9 「2.図面広げ『ほな進めよか』」</ref>、1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した<ref name = hitomachi2 />。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく<ref name = hitomachi2 />。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった<ref group = *>『通天閣 人と街の物語』 p.17によれば、[[天王寺公園]]に再建する話もあったという。</ref><ref name = hitomachi2 />。
 
設計の内藤が紹介した[[竹中工務店]]とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で[[奥村組]]が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)<ref name = hitomachi3 />。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが<ref name = hitomachi4>『通天閣 人と街の物語』 p.20 「4.開業 気分は『七人の侍』」</ref>、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中にあわてて中2階を付け足すといったトラブルがあった<ref name = hitomachi4 />。構造材の[[鉄骨]]は[[めっき#溶融亜鉛めっき|溶融亜鉛めっき]]された品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという<ref>『通天閣 人と街のものがたり』 p.102</ref>。
 
運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず<ref name = hitomachi3 />、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった<ref name = hitomachi3 />。さらに登記の2-3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した<ref name = hitomachi3 />。