「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の版間の差分

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===ロンバルディア・ヴェネツィア副王===
[[File:Huwelijk Charlotte.jpg|thumb|right|260px|マクシミリアンとベルギー王女[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロッテ]]の結婚式(1857年)]]
フェルディナント・マクシミリアンは政治的には、当時流行していた進歩思想の影響を受けていた。彼は[[自由主義]]の意見の持ち主であり、これによって[[1857年]]2月に[[ロンバルド=ヴェネト王国]]の[[副王]]に任命された。
 
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二人は、ミラノに総督としてあるいはロンバルディア・ヴェネトの副王として1857年から[[1859年]]にフランツ・ヨーゼフ1世が彼を副王から解任するまでの間[[ミラノ]]に暮らした。
 
皇帝はイタリアでの弟による自由主義政策の実行に怒った。彼の解任からほどなく、オーストリアはイタリア地域のほとんどでの統治の影響力を失った。マクシミリアンはトリエステで隠遁した。彼はトリエステ近郊に{{仮リンク|ミラマール城|en|Miramare Castle}}を築いた。
 
==メキシコ皇帝==
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===メキシコ皇帝帝冠受諾===
{{See also|:w:Imperial Crown of Mexico}}
[[File:Dell'Acqua Ernennung Maximilians zum Kaiser Mexikos.jpg|thumb|right|300px260px|トリエステの{{仮リンク|ミラマール城|en|Miramare Castle}}でメキシコ帝冠を受諾するマクシミリアン。]]
1859年、フェルディナント・マクシミリアンは[[:w:Mexican Nobility|メキシコ貴族]]からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・[[:w:Martínez del Río|マルチネス・デ・リオ]]に率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。当初マクシミリアンは受け入れなかったが、シャルロッテ妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけて兄のフランツ・ヨーゼフ1世と協議した<ref name="江村(1994) p.104">{{Harvnb|江村|1994|loc=p.104|ref=e}}</ref>。マクシミリアンは、ブラジルの[[:w:Tropical and subtropical moist broadleaf forests|熱帯雨林]]での植物学の調査が伴った探検で彼の止むことのない欲望を満たそうとした。
[[File:Imperial Monogram of Emperor Maximilian I of Mexico.svg|thumb|left|140px|Imperial Monogram]]
1859年、フェルディナント・マクシミリアンは[[:w:Mexican Nobility|メキシコ貴族]]からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・[[:w:Martínez del Río|マルチネス・デ・リオ]]に率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。当初マクシミリアンは受け入れなかったが、彼は、ブラジルの[[:w:Tropical and subtropical moist broadleaf forests|熱帯雨林]]での植物学の調査が伴った探検で彼の止むことのない欲望を満たそうとした。
 
しかしフランスのメキシコ出兵の後、ナポレオン3世の圧力の下、[[:w:Élie-Frédéric Forey|エリー・フレデリック・フォレー]]将軍のメキシコシティ攻略と帝国設立の布告を確認する国民投票(この投票は「フランス軍が占領している地域のほとんど」で行われたが、マクシミリアンには投票の胡散臭さは伝えなかった)の後、[[1863年]]10月に彼はメキシコ帝冠を受諾した。
 
兄フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにも関わらず<ref name="江村(1994) p.104"/>、頑強とはいえない皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]に万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した<ref name="リケット(1995) p.108-109"> リケット(1995) p.108-109</ref>。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、オーストリア皇位継承権を放棄することを署名した<ref name="リケット(1995) p.108-109"/>。この決定によりマクシミリアン皇位継承権のみならずオーストリア皇族としての権利喪失したが、これは彼がヨーロッパを離れる直前まで知らされていなかった。シャルロッテ大公妃はこの後、「カルロータ皇后陛下」として知られるようになった。
 
===メキシコ皇帝としての治世===
{{See also|メキシコ帝国|メキシコ第二帝政}}
[[File:Imperial Monogram of Emperor Maximilian I of Mexico.svg|thumb|leftright|140px|Imperial Monogram]]
 
[[File:Emperador Maximiliano I de Mexico.jpg|thumb|left|250px|マクシミリアーノ1世([[フランツ・ヴィンターハルター]]画、1864年)]]
1864年4月、フェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞した。彼はトリエステから[[:w:SMS Novara (1850)|ノヴァラ]]号に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」(オーストリア)と 「テミス号(''Themis'')」(フランス)とを従えて皇帝のヨット「ファンタジー号(''Phantasie'')」はこれらを導きミラマール宮殿を出港した<ref>Haslip, Joan, ''Imperial Adventurer – Emperor Maximilian of Mexico'', London, 1971, ISBN 0-297-00363-1</ref>。彼らは教皇ピウス9世の祝福を受け、ヴィクトリア女王は[[ジブラルタル海峡]]を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令した。
 
新皇帝は群衆からの手荒な祝意の中[[ベラクルス]]に同年5月21日に上陸した。彼はメキシコの保守派とナポレオン3世の支援があったが、フアレス率いる自由主義軍からは彼の帝国を拒否されて以来、一連の困難に巻き込まれた。フランス軍と共和派の間の連続的な戦闘があった。
 
[[File:Emperador Maximiliano I de Mexico.jpg|thumb|left|250px|マクシミリアーノ1世([[フランツ・ヴィンターハルター]]画、1864年)]]
 
皇帝夫妻は[[メキシコシティ]]を帝都に選んだ。皇帝夫妻は[[チャプルテペック城]]を居城にした。この城はかつてのメキシコシティの郊外の丘の上にあり、アステカ皇帝の離宮であった。
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彼の最期の言葉は「私は全ての人を許そう!お願いだ、みなも私を許してくれたまえ!いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む!メキシコ万歳!独立万歳!<ref>「イカロスの失墜」菊地良生、1994年、新人物往来社 ISBN 4-404-02130-5 C0023 の P294 L1,2 より</ref><ref>Giving executer(s) a portion of gold/silver is well-established among European aristocracy since medieval time and not an act of desperation. In other accounts, Maximilian calmly said, "aim well", to the firing squad and met his death with dignity.</ref>」。
2人のメキシコ人の将軍は「皇帝万歳!」と叫んで射殺された。なお、マクシミリアンの処刑が兄フランツ・ヨーゼフ1世に知らされたのは、[[アウスグライヒ]]により[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が成立したことを祝う、[[ブダペスト]]での祝賀行事の最中だった<ref>{{Harvnb|ウィートクロフツ|2009|loc=p.350|ref=w1}}</ref>。
2人のメキシコ人の将軍は「皇帝万歳!」と叫んで射殺された。
 
==埋葬==
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* {{cite book |last=Palmer |first=Alan |title=Twilight of the Habsburgs: The Life and Times of Emperor Francis Joseph |year=1994 |publisher=Atlantic Monthly Press |location=New York |isbn=0-87113-665-1 |ref=harv }}
* {{cite book |last=Ridley |first=Jasper |title=Maximilian & Juarez |year=2001 |publisher=Phoenix Press |location=London |isbn=1-84212-150-2 |ref=harv }}
{{refend}}
* イカロスの失墜 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 [[菊池良生]] 新人物往来社, 1994.9.
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=1994(平成6)年9月20日|title=フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=4-487-79143-X|ref=e}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年(平成7年)|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4404021305}}
* {{Cite book|和書|author=[[アンドリュー・ウィートクロフツ]]|translator=[[瀬原義生]]|date=2009(平成21)年7月15日|title=ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者|publisher=[[文理閣]]|isbn=978-4-89259-591-2|ref=w1}}
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== 関連項目 ==