「仁科盛信」の版間の差分

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勝頼末期に[[織田信長]]の[[甲州征伐]]に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、[[高遠城]]において最後まで抵抗し、討死した。
 
[[諱]]は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、信玄が将軍[[足利義晴]]から授与された「晴」の[[偏諱]]を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている<ref>丸島和洋「武田勝頼と一門」『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年</ref>。また、天正9年(1581年)5月7日付[[霊松寺 (大町市)|霊松寺]]宛禁制や『[[甲乱記]]』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている<ref>丸島 2007年</ref>。
 
== 生涯 ==
 
=== 勝頼時代と最期 ===
信玄の死後は当主となった異母兄である勝頼に仕え、[[甲越同盟]]の締結後にも国境警備を務めている。勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、[[天正]]9年([[1581年]])には対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国[[森城 (信濃国)|森城]]の他、[[高遠城]]の城主を兼任する。盛信は信濃[[佐久郡]][[内山城]]代の[[小山田昌成]]・[[小山田大学助|大学助]]兄弟と高遠城に籠城する。
 
天正10年([[1582年]])2月、[[織田信長]]の命により織田軍による[[甲州征伐]]が始まると、兵3,000(500とする説<ref name="高遠藩12">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P12</ref>)が籠もる高遠城は信長の嫡男・[[織田信忠]]率いる5万の大軍に包囲された。このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。
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