「坂田三吉」の版間の差分

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終戦直後、[[1946年]](昭和21年)7月23日に自宅で死去。食当たりでの急死であったという(少し傷んでいた[[鯨肉]]を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)。阪田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で写真もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。しかし没後まもなく製作された戯曲[[北条秀司]]原作『王将』が好評を得たため、阪田の名は将棋指しとして不朽なものとなった。
 
[[File:Ōshō-stile in honor of Sankichi Sakata.JPG|thumb|[[通天閣]]に建立された王将碑]]
[[1955年]](昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市[[浪速区]]の[[新世界 (大阪)|新世界]]の[[通天閣]]下には「王将」の碑がある。また生家跡にも[[1989年]](平成元年)11月、「王将阪田三吉顕彰碑」が堺市によって建立された。墓は大阪府[[豊中市]]の[[服部霊園]]。これは、阪田のファンであった[[高橋龍太郎]]の寄附によって[[1954年]](昭和31年)に日本将棋連盟が建立した墓で、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった<ref>「将棋世界」1981年7月</ref>。しかし、阪田三吉墓は[[清水次郎長]]の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、墓石が損傷している。