「大久保忠行」の版間の差分

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[[三河国]]上和田の武士。[[徳川家康]]に仕え、[[永禄]]3年([[1560年]])に三河国[[宝飯郡]]赤坂郷で領地300石を与えられる<ref>阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 316頁</ref>。永禄6年([[1563年]])、[[三河一向一揆]]に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
 
これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた、また家康は毒殺を恐れて普段から献上される餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信頼して食べていた<ref>『大日本人名辭書』経済雑誌社、1896年 443-444頁</ref>、などの話が残る。
 
[[三方ヶ原の戦い]]の際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった<ref>『下谷区史』下谷区、1935年 1202頁</ref>。
 
== 神田上水 ==
[[天正]]18年([[1590年]])7月12日、江戸城下の上水工事の命を受ける<ref>「天正日記」</ref>。その後、約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の[[神田上水]]の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E8%97%A4%E4%BA%94%E9%83%8E 朝日日本歴史人物事典]</ref>。