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=== ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年 ===
[[File:SHouston 2.jpg|right|thumb|200px|[[サミュエル・ヒューストン]]]]
ヒューストン政権の1期目はテキサスを独立国として維持することに焦点が置かれ、平原インディアンと戦争をする資源は無かった<ref>[http: name=kreneck//www.tshaonline.org/handbook/online/articles/HH/fho73.html]</ref>。
ヒューストンはその子供時代の大部分を[[テネシー州]]のチェロキー族インディアンと共に過ごしており、スコットランド系アイルランド人とチェロキー族酋長ボウルズの血を引いていた<ref name="cherokee">[http://files.usgwarchives.net/tx/smith/military/indian/cherokee.txt]</ref>。ボウルズ酋長は大胆な猟師を意味するディワルリとも呼ばれていた<ref>[http://www.legendsofamerica.com/WE-NativeAmericanList-2.html#Chief%20Bowles%20(1756-1839)]</ref>。ヒューストンはチェロキー族が住む土地に対する権利を与えた「厳粛宣言」を支持した<ref name="cherokee"/>。[[1836年]][[2月23日]]にチェロキー族との条約を交渉し、"ジェネラル"・ボウルズ酋長の集落に最初の暫定テキサス政府を創った<ref name="cherokee"/>。ヒューストンとジョン・フォーブスがテキサス政府のために署名し、ボウルズ酋長、ビッグマッシュ、サミュエル・ベンジ、オソータ、コーンタッセル、ザ・エッグ、ジョン・ボウルズ(酋長の息子)、およびテヌータがチェロキー族、[[ショーニー族]]、デラウェア族、キカプー族、クアポー族、ビロキシー族、イオニ族、アラバマ族、コーシャッタ族、ネチェズのカドー族、タホカルレイク族およびマタクオ族のために署名した<ref name="cherokee"/>。この条約で認められた地域には、今日の[[スミス郡 (テキサス州)|スミス郡]]と[[チェロキー郡 (テキサス州)|チェロキー郡]]、および[[バンザント郡 (テキサス州)|バンザント郡]]、[[ラスク郡 (テキサス州)|ラスク郡]]と[[グレッグ郡 (テキサス州)|グレッグ郡]]の一部が含まれた<ref name="cherokee"/>。またこの条約ではテキサス市民を含め部族のメンバーでない者には土地を売ることも貸すこともできないと述べられていた<ref name="cherokee"/>。条約の調印後、ヒューストンはボウルズ酋長に刀、赤い絹のベストおよび帯を贈った<ref name="cherokee"/>。
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共和国大統領としてのヒューストンの最初の行動は、この条約の批准を求めてテキサス上院に送ることだった<ref name="cherokee"/>。この批准が1年間も上院の審議で滞った後、この条約はテキサス市民にとって不利益をもたらすと最終的な決定が下された。これはデイビッド・G・バーネットがチェロキー条約の土地の中に広大な土地を持っていたからだとされている<ref name="cherokee"/>。この条約は[[1837年]][[12月26日]]に「無効」と宣言された<ref name="cherokee"/>。ヒューストンは大統領ではあったが、条約の規定を実行させようとして、テキサス民兵隊の指揮官であるトマス・J・ラスク将軍に境界線を明確にするよう求めた<ref name="cherokee"/>。ヒューストンにとって不運なことにこれは成功せず、この件について何もできないままその任期の終わりを迎えた<ref name="cherokee"/>。
 
ヒューストン政権の1期目におけるインディアン問題はコルドバの反乱で脚光を浴びた。チェロキー族インディアンとヒスパニックが共謀して新しいテキサス共和国に反乱を起こし、メキシコに再加盟するという広範囲の陰謀の証拠が存在した。ヒューストンは友邦であるチェロキー族が関わっていると考えることを拒否し、チェロキー族の逮捕命令も拒否した。コルドバの反乱はヒューストンが流血沙汰や広範囲の騒擾なしで収めてしまったその能力を際立たせた<ref name=kreneck> Kreneck, Thomas (2000). <cite> [http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/HH/fho73.html]</cite>. "Texas Handbook Online September 7 2007.</ref>。ヒューストンが大統領を辞めるとき、共和国は先住民との和平関係を維持していた。
 
ヒューストンがその1期目にインディアンとの和平を確立することに大いに成功したとしても、テキサス共和国議会はインディアンの土地を白人開拓者に開放する法律を成立させ、ヒューストンの拒否権も無効にした。開拓前線はブラゾ川、[[コロラド川]]およびグアダルーペ川に沿って急速に北に移動し、コマンチェ族の猟場やコマンチェリアの中に入っていった。間もなくテキサスとコマンチェ族の関係は暴力沙汰に変わっていった。ヒューストンは和平を取り戻す為の努力をし、テキサス開拓者の活力に警告を受けたコマンチェ族はその伝統的な境界に関する概念に逆らってでも固定した境界を要求することを検討し始めた。しかし、ヒューストンはテキサスの法律によって共和国が権利主張する土地を幾らかでも譲ることを禁じられていた。それでも1838年にはコマンチェ族との和平を達成することができた<ref name=pekka>{{cite book |last= Hamalainen |first= Pekka |title= The Comanche Empire |year= 2008 |publisher= Yale University Press |isbn= 978-0-300-12654-9 |pages= 215}} Online at [http://books.google.com/books?id=Fmh0AAAAMAAJ&pgis=1 Google Books]</ref>。
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ラマー大統領は「排除」すなわちインディアン部族を白人開拓者のいない所まで追放することを試みた最初のテキサスの役人だった。この政策は、恒久的なインディアンの前線、すなわち様々に「排除」された部族が白人開拓者あるいは諍い無しに彼らの生活を営むことのできる境界線のようなものがあるはずだと考えるものだった<ref name="dial"/><ref name= "Fehrenbach"/>。
 
ラマーはチェロキー族がコルドバの反乱に加担した以上はテキサスの中に留まることを許されないと確信するようになった。チェロキー族をテキサスから排除することになるチェロキー戦争は、ラマーが政権を取った直後に始まった<ref name="herring">{{Handbookoftexas|id=CC/jcc3jcc03|name=Cordova Rebellion|author=Rebecca J. Herring|date=2002年|retrieved=2008年12月23日}}</ref>。
 
==== チェロキー戦争:1838年-1839年 ====
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しかし、コマンチェ族とカイオワ族は1830年代に2万人から3万人が住んでいたと推測されている。彼らには高性能の火器が供給されており、かなり過剰なくらいの馬も持っていた。さらに1830年代までにコマンチェ族はインディアン同士の大きな同盟ネットワークを確立し、広い交易のネットワークも持っていた<ref>{{cite book |last= Hamalainen |first= Pekka |title= The Comanche Empire |year= 2008 |publisher= Yale University Press |isbn= 978-0-300-12654-9 |pages= 177-179}} Online at [http://books.google.com/books?id=Fmh0AAAAMAAJ&pgis=1 Google Books]</ref>。共和国は民兵隊を持っていたが持続的軍隊ではなく、そのちっぽけな海軍はヒューストン政権下で大きく減らされていた。チェロキー戦争以後、ラマーはその政策を追求するための人も金も無かったが、挫けることもなかった<ref name= "Fehrenbach"/>。
ラマーの2年間の任期はコマンチェ族と開拓者の間の暴力沙汰を拡大することで特徴付けられた。例えば冬の間に捕獲できたはずのパロデュリョ・キャニオンでコマンチェ族と戦う十分なレンジャーズが居なかった<ref name= "Fehrenbach"/>。しかし1839年暮れ、コマンチェ族ペナタッカ隊の穏健派酋長達の何人かが、アパッチ族にしたようには開拓者達を完全にその領土内から追い出すことは出来ないと考えるようになっていた。コマンチェ族領土の北方で[[シャイアン族]]と[[アラパホ族]]が攻撃を仕掛け、数回の天然痘の流行で前の2世代に大きな損失を出していたこととが組み合わされ、ペナタッカの穏健派酋長達は条約で利益に繋がると確信していった。それ故に彼らは共和国とコマンチェリアの境界を認めさせることと引き換えに和平を交渉するためにテキサス人との面会を申し出た<ref name="schilz">{{Handbookoftexas|id=CC/btc1btc01|name=Council House Fight|author=Jodye Lynn Dickson Schilz|date=2002年|retrieved=2008年12月23日}}</ref>。
 
ペナタッカ隊の戦闘派酋長で最も著名なバッファロー・ハンプはこの決定を承服せず、ラマーやその代理人を信用しなかった。コマンチェ族の他の11隊のどれも和平交渉に全く関与しなかった。
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==== 協議の家の戦闘のその後: 大襲撃とプラム・クリーク ====
協議の家の戦闘で33人のコマンチェ族酋長が殺されたことへの報復として、残っていた捕虜のうち3人を除く者達が拷問を受けながら緩り処刑された。残った3人は既に部族の中に縁組されていた<ref>[http://jack0204.tripod.com/gen/Heskew/council.htm University of Texas].</ref><ref>[http://or.essortment.com/commancheindian_rmlu.htm Comanche Nation].</ref>。バッファロー・ハンプは更なる報復を望み、その戦士達を集め、コマンチェ族のあらゆる隊、隊の中のあらゆる支族、カイオワ族およびカイオワ・アパッチ族に伝令が送られた。およそ500人になった戦士たちと他に安らぎを与え仕事を分かつ女性子供400人が集まり、バッファロー・ハンプがその大戦闘部隊を率いてエドワーズ台地から海岸まで行く先々で襲撃を行った<ref name = "Clarke"><cite>The Comanche Barrier to South Plains Settlement: A Century and a Half of Savage Resistance to the Advancing White Frontier</cite>. Arthur H. Clarke Co. 1933.</ref>。ビクトリアと当時テキサスでは第2の港だったリンビルを燃やして略奪し、コマンチェ族は数千の馬やロバを集め、リンビルの倉庫から多くの物資を持ち出した<ref name=roell> Roell, Craig (2002). <cite>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/LL/btl1.htmlbtl01]</cite>. "Texas Handbook Online September 7 2007.</ref>。リンビルの人々は慎重にメキシコ湾岸まで逃亡し、そこでコマンチェ族が略奪し町を燃やすのを絶望的に眺めていた。
 
ロックハートに近いプラム・クリークでは、民兵隊が、軍事歴史家が通常の状況では決して出来なかっただろうと言うこと、すなわち歴史上でも最も素晴らしい軽騎兵隊と考えられるコマンチェ族を追い詰めた。マシュー・コールドウェルとエド・バールソンが指揮する数百の民兵隊にレンジャー中隊全てを加えたものがコマンチェ族の戦闘隊と走りながらの大銃撃戦を演じ、コマンチェ族は戦利品を守ろうとし、民兵隊はインディアンを全滅させようとした。皮肉なことに再度軍事歴史家に拠れば、同じこと、つまりコマンチェ族を脆弱にしていた貪欲さが彼らを救った。民兵隊は金塊で数十万ドルを積んだロバを取り戻して、それらの戦利品を分けることに忙殺され、コマンチェ族のことは忘れて家に戻った<ref name="comanches"/>。民兵隊は80人の戦士を殺したと報告したが、1ダースの遺体しか発見されなかった。両軍とも満足して戻った。コマンチェ族は3,000頭の盗んだ馬と多くの戦利品を抱えて戻り、民兵隊は金塊数十万ドルだった<ref name="comanches"/>。
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[[1845年]][[2月28日]]、[[アメリカ合衆国議会]]はアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合する法案を承認した。テキサスは併合が有効となる[[12月29日]]にアメリカ合衆国の州になった<ref>[http://www.yale.edu/lawweb/avalon/texan04.htm The Avalon Project at Yale Law School: Texas - From Independence to Annexation]</ref>。テキサス共和国が併合について主要な動機の1つになったものは、共和国の巨大な負債の存在であり、アメリカ合衆国が併合の代わりにそれを引き受けることに合意したことだった。[[1852年]]、この負債引き受けの代償として、テキサスが領土と主張していた土地の大部分、現在の[[コロラド州]]、[[カンザス州]]、[[オクラホマ州]]、[[ニューメキシコ州]]および[[ワイオミング州]]となった所が連邦政府に割譲された。
 
共和国がアメリカ合衆国に加盟したことは平原インディアンにとって終焉の始まりだった。アメリカ合衆国は現実的に「排除」政策を適用する資源と人を持っており、事実そうした。最終的には1846年5月、バッファロー・ハンプはアメリカ合衆国とテキサス州の大きな力に立ち向かい続けることはとてもできないと認識するようになり、コマンチェ族の代表を率いてカウンシル・スプリングスでの条約交渉に現れ、アメリカ合衆国との条約に調印した<ref name="buffalo">[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/BB/fbu12.html Handbook of Texas Online - BUFFALO HUMP]</ref>。
 
バッファロー・ハンプはペナタッカ・コマンチェ族の戦闘派酋長として、1840年代後半および1850年代を通じてアメリカの役人との平和的関係を続けた<ref name = "TX Indiansbuffalo">[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/BB/fbu12.html], Texas Indians.</ref>。1849年にはジョン・S・フォードの遠征隊にサンアントニオからエルパソまでの行程の一部を案内し、1856年には[[ブラゾス川]]沿いに新しく設立されたコマンチェ族居留地にその部族に対する不幸にも最後の誘導を行った。白人馬泥棒や不法潜入者からの襲撃が続き、ペナタッカ隊は居留地では自由さが無くなり食糧もあまり供給されないために不満を抱いたこともあって、バッファロー・ハンプは1858年に居留地からその部族を移動させざるを得なくなった。
 
=== ロバート・ニーバーズの殺害 ===
開拓者達が実際にテキサス州内に設立された居留地のインディアンに攻撃を始め、連邦政府のインディアン代理人ロバート・ニーバーズが白人のテキサス人に憎まれるようになったのがこの時期だった。ニーバーズは居留地に近いベルナップ砦とキャンプ・クーパーに駐屯するアメリカ陸軍の士官達がニーバーズとその駐在職員に適切な援助を与えられず、インディアンに対する適切な保護もできていないと申し立てた。様々な人々からの命を奪うという脅しが続いたにも拘らず、ニーバーズはその任務を遂行する決心を変えず、インディアンを保護する法を執行した<ref>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/NN/fne8.htmlfne08 Handbook of Texas Online - NEIGHBORS, ROBERT SIMPSON]</ref>。
 
ニーバーズは連邦軍に恥を知らせ政治的に自分を助けるように仕向けてその援助を得ると、居留地から白人を押し戻すことに成功した。しかし、インディアンはテキサス州内で決して安全にはならないと確信し、[[インディアン準州]]内の安全な場所に移す決心をした。[[1859年]]8月、ニーバーズは一人の命も失わずにインディアンをインディアン準州内の新しい居留地に移すことができた。[[9月14日]]、ニーバーズが開拓者の一人と話をしているときにエドワード・コーネットという男がニーバーズの背中から撃って殺した。歴史家達はその暗殺がニーバーズのコマンチェ族を守る行動の直接の結果だと考えている。ニーバーズはおそらく暗殺者を知りもしなかった。ニーバーズはベルナップ砦の文民墓地に埋葬された<ref>[http://www.dickshovel.com/ComancheThree.html Comanche-Part Three]</ref>。
 
=== バッファロー・ハンプ宿営地への攻撃 ===
バッファロー・ハンプの下でかって力のあったペナタッカ隊の残党はウィチタ山脈で宿営しているときに、[[アール・ヴァン・ドーン]]少佐の指揮するアメリカ軍に攻撃された<ref name = "TX Indiansbuffalo"/>。バッファロー・ハンプの隊がアーバックル砦で最近正式にアメリカ合衆国との和平条約に調印したことを知らなかったとされるヴァン・ドーンとその部隊は、大半が女性と子供ばかりのコマンチェ族80人を殺した<ref name = "TX Indiansbuffalo"/>。
 
アメリカ合衆国との和平条約に調印したばかりのインディアンのみを収容していた平和な宿営地への攻撃は子供と女性ばかりを殺し、コマンチェ族との「戦闘」としてヴァン・ドーンから報告され、歴史家によっては「ウィチタ山脈の戦い」として今日でも記録されている<ref name=frontier>[http://www.texasbeyondhistory.net/forts/frontier.html Frontier Forts > Texas and the Western Frontier]</ref>。
 
これにも拘らず、年を取り疲れていたバッファロー・ハンプは追随者の残りを率いてオクラホマのインディアン準州内にあるコブ砦に近いコマンチェ居留地に入った。そこではコマンチェの伝統的生活様式が失われたことを大いに悲しんだとされるが、部族民の模範となるために家屋と農場を求めた。バッファロー・ハンプは牧場と農場を営む者として生き延びようとしながら、1870年に死んだ<ref name = "TX Indiansbuffalo"/>。
 
=== アンテロープヒル作戦とリトルローブ・クリーク: 1858年 ===
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[[アメリカ陸軍]]は暴力沙汰を完全に封じることはできないと認識した。連邦軍は軍事的配慮よりも政治的に駆逐できるように見えるという理由でこの地域から転出させられていた。同時に、連邦法や多くの条約で、連邦が保護するインディアン準州内に州兵が侵入することを禁じていた。同様にアメリカ陸軍もインディアン準州内のインディアンを攻撃しないように、あるいはそのような攻撃を許さないように指示されていた<ref name= "Fehrenbach"/>。その命令の背後にあった理屈はチェロキー族のような多くの先住民族が農業に携わっており、平和な開拓者として生活しているということだった。コマンチェ族やカイオワ族のような他の部族は、コマンチェリアというインディアン準州の一部を生活のために使い続けながら、一方でテキサスの白人開拓者への襲撃も続けていた<ref name=Combar>The Comanche Barrier to South Plains Settlement: A Century and a Half of Savage Resistance to the Advancing White Frontier</cite>. Arthur H. Clarke Co. 1933.</ref>。
連邦政府、テキサス州および先住民族の間の関係は、テキサス併合の結果として持ち上がった特徴的法律問題で複雑になっていた。連邦政府は[[アメリカ合衆国憲法]]によってインディアン問題に関わる責任があり、テキサスが1846年に州になった後はその肩代わりをしていた。しかし、テキサスがアメリカ合衆国に加盟する条件として、新しい州は公有地の管理を続けた。他の新しい州の場合には全て、ワシントンが公有地とインディアン問題を管理したので、様々な集団に対する居留地を保証する条約を作ることができた。しかしテキサス州の場合、連邦政府はそれができなかった。テキサス州はその領域内でインディアン居留地のために公有地を提供することを断固として拒んだが、一方で連邦政府にインディアン問題の費用など細部に責任を持ってくれることを期待していた。連邦政府がテキサス州に派遣したインディアン代理人は、インディアンの土地に対する権利がフロンティアを平和にするための鍵であり、インディアンの母国に関する問題でテキサス州当局の非協力的態度がある限り平和は訪れないことが分かっていた<ref>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/II/bzi4.htmlbzi04 ''Handbook of Texas Online''. Texas State Historical Association]</ref>。
 
==== アンテロープヒルでの作戦: テキサス人のコマンチェリア侵略 1858年 ====
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==== 州裁判所に掛けられた最初のインディアン指導者達 ====
シャーマン将軍はサタンタ、サタンクおよびビッグツリーの裁判を命じて、彼等をアメリカ合衆国の裁判所で襲撃の罪で裁かれる最初の先住民指導者にした<ref name=fsa33>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/SS/fsa33.html Handbook of Texas Online - SATANTA]</ref>。シャーマンはテキサスのジャックスボロまで3人の準酋長クラスの者を連れて行き、殺人罪で裁判に掛けさせた。サタンクは裁判のためにリチャードソン砦に行く間に脱走しようとしたが殺された。サタンクは死の歌を歌い始め、護衛の一人からライフル銃を奪うことに成功したが、発砲できる前に射殺された。その遺族が引き取りに来ることを恐れてその遺体は埋葬されずに道に放置されていたが、マッケンジー大佐がサタンクの遺族にその遺体を無事引き取れるよう確保した。
 
シャーマン将軍がカイオワ族戦闘派酋長達を裁判のためにジャックスボロまで送ることを決めたとき、彼は見せしめにしようと思った。彼が望まなかったことで起こってしまったことは、裁判がサーカスになったことだった。まず2人のカイオワ族を弁護するために指名された2人の弁護士が、軍隊の望んだある種文民の授業に参加する替わりに実際はインディアンを代表した。その裁判における弁論戦略は、2人の酋長が単にその部族の生き残りのために戦ったと言うことであり、これが世界中の注目を引き、全過程に対する反対を刺激した。さらには、インディアン問題担当局も全課程に反対することを選び、2人の酋長はアメリカ合衆国と戦争していたのだから、文民の司法権は及ばないと主張した。インディアンも弁解しなかった。サタンタはもし彼が処刑されるならば何が起こるかを、「私は部族の民の中で偉大な酋長である。もしあなた方が私を殺すならば、それはプレーリーにおける火花のようなものになるだろう。それが大火を生じる。恐ろしい大火を!」と警告した。サタンタは殺人罪で有罪とされ、死刑を宣告された。ビッグツリーも同様だったが、テキサス州知事エドマンド・デイビスはいわゆる[[クエーカー]]教の平和政策という指導者達からの大きな圧力の下、裁判所の裁定を覆し、両人の罰として終身刑を与えた。サタンタとビッグツリーはテキサス州ハンツビル州立刑務所で2年間収監されたあとに釈放された<ref name="fsa33"/>。
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1872年[[9月28日]]、テキサス州グレイ郡のマクレラン・クリーク近くで、ラナルド・マッケンジー大佐の指揮する騎兵隊が、カイウォチェとモウウェイの下のコマンチェ族集落を襲った。この「戦闘」は実のところ、陸軍が完全に急襲で宿営地を襲うことができたので、インディアンの男、女および子供達の虐殺であり殺戮だった<ref name="comanches"/>。
 
集落の住人の大半が捕まえられた。コマンチェ族の捕虜は見張りを付けられ、コンチョ砦まで移送され、冬の間そこで収監されていた。マッケンジーはこの捕虜達を居留地から出ているインディアンに居留地に戻って来させ、また白人捕虜を釈放させる取引材料に使った<ref name=hosmer> {{cite web|url=http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/NN/qfn2.htmlqfn02|title=Battle of the North Fork|accessdate=2007-07-15 |last=Hosmer |first=Brian C. |work=Handbook of Texas Online }}</ref>。マッケンジーの計略が功を奏し、戦闘から間もなくモウウェイとパラオクーム(ブルベア)がウィチタのインディアン局近くにその部隊を移動させた。インディアン捕虜の中にその家族も含まれていたノコニの酋長ホースバックは、自発的にコマンチェ族を説得して、盗んだ家畜やクリントン・スミスを含む白人捕虜と自分達の女性や子供との交換取引に応じさせた<ref name=hosmer/>。
 
このできごとはアメリカ合衆国が初めてコマンチェリアの心臓部でコマンチェ族を攻撃して成功したこととなり、ステイクト平原はもはや安全な天国ではないことを示した。さらに、この戦闘は、陸軍が荒々しいコマンチェ族を居留地に移そうと考えるならば、彼らの集落を破壊することであり、居留地の外では生きて行けなくすることだということを証明した。マッケンジーの戦術はシャーマンが1874年のレッド川戦争でさらにそうするよう権限を与えた成功例となった。1874年に起こったパロデュロ・キャニオンにおける集落へのマッケンジーの攻撃と、トゥール・キャニオンにおけるコマンチェ族の馬群の破壊は、この戦闘をそっくりそのまま写したものであった<ref name="comanches"/>。