「水口昌彦」の版間の差分

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[[京都府立嵯峨野高等学校]]を経て[[京都大学]][[工学部]]電気工学科卒業。学生時代の1981年、「[[笑ってる場合ですよ!]]」のオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に、同じ高校の後輩で後に[[長崎放送]]アナウンサーとなる[[竹内淳 (アナウンサー)|竹内淳]]と組んだアマチュアの漫才コンビ「にっちもさっちも」で5日連続で勝ち抜き、11代目チャンピオンになる。この後、相方だった竹内と共に[[太田プロダクション]]からプロデビューしないかと誘われたが断っている<ref>別冊[[ラジオパラダイス]]「DJ名鑑」(1987年刊)286ページ(「竹内淳」の項目)</ref>。
 
[[1982年]]に技術職でフジテレビを受験して採用されたが、配属は編成部だった。その後、第二制作部(当時)へ異動、[[石田弘]]の下で下積み経験をする。AD時代、「[[夕やけニャンニャン]]」で[[おニャン子クラブ]]の教育係「マイケル水口」として出演。のちに番組プロデューサーとして「[[DAIBAッテキ!!]]」を開始、[[下川みくに]]、[[熊切あさ美]]らを輩出したアイドルグループ・[[チェキッ娘]]を生み出す。チェキッ娘については、元メンバーからは今でも「パパ」と慕われ、「[[DAIBAクシン!!]]」シリーズ終了後の時にはメンバー全員と1時間ずつ面接を行い「チェキッ娘の名を語って[[ヌード]]にはなるな」と言っていたという<ref name="scola0909">『[[スコラ]]』2009年9月号「チェキッ娘生みの親 プロデューサー水口昌彦かく語りき」(90P)より。このため、メンバーがセクシーショットを公開する時はどこまで見せていいか相談に来ていたという。</ref>。近年の元メンバーの結婚式の時にはよく出席し<ref name="scola0909"/>、この度に元メンバーのブログにもその模様が掲載されていることが多い。
 
[[音組]]の基礎を作った人物の一人。[[井上信悟]](現ポニーキャニオン副社長)には今でも頭が上がらない。水口班は[[きくち伸]]に受け継がれ、音組となる(ちなみに水口班(現在「音組」)は元々は[[藤森吉之]]班→[[疋田拓]]・[[井上信悟]]班→[[渡邊光男]]班と歴代同局の看板音楽番組として知られていた「[[夜のヒットスタジオ]]」の制作に関わってきた一派でもある)。