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=== 送り火の中止と白い送り火 ===
[[太平洋戦争]]下にある1943年(昭和18年)、主として連合軍の[[空襲]]への備え、即ち[[防空]]上、[[灯火管制]]上の観点から、送り火の点火は見送られた。屋外での焚火等が禁止されており、空襲警報発令時に即座の消火が困難であるとみられたためという。そのため同年8月16は早朝より[[京都市立第三錦林小学校|第三錦林小学校]]の児童400人とその他一般人400人、計800人が白いシャツを着用し大文字を登り、[[ラジオ体操]]を奉納し、これに代えることとなった。当時の京都新聞では''「英霊を送る」''ともされている<ref>『京都新聞』1943年7月17日朝刊、8月13日夕刊、8月16日夕刊</ref><ref name = anzai /><ref group = *>1943年8月17日付『大阪毎日新聞』では計2000人(『京の大文字ものがたり』pp.153-154 による)。</ref>。
 
翌1944年には[[京都市立錦林小学校|錦林小学校]]および第二、第三、第四錦林小学校の児童が人文字を表し<ref group = *>京都新聞では単に人文字としており、ラジオ体操への言及はない。</ref>、1945年も中止となっていたが、[[終戦]]より一年余りが過ぎた1946年8月16日には4年ぶりに送り火が行われた<ref>『京の大文字ものがたり』p.153「人文字の大文字」</ref><ref>『京都新聞』1944年8月17日朝刊、1946年8月17日朝刊</ref><!-- 京都新聞では1946についてのみ、松ヶ崎と西賀茂への言及あり。他は明示されているのは大文字のみ -->。