「デメトリオス1世 (マケドニア王)」の版間の差分

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デメトリオスは[[紀元前306年]]の[[サラミスの海戦 (紀元前306年)|サラミスの海戦]]でプトレマイオス艦隊を破り、[[キプロス島]]を手中に収めた。そしてこの勝利を以って同年、父と共に王を称した。他の[[ディアドコイ]]もそれに倣って王を称した。
 
デメトリオスは[[紀元前305年]]からプトレマイオスと密接な関係を持っていた[[ロドス島]]を攻撃する([[ロドス包囲戦]])も、ロドス側の頑強な抵抗にあい、ついに落とすことができなかった。しかし、彼はその過程で他の多くの都市を落とし、ポリオルケテスのあだ名を得た。翌年、攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協し、両者の戦争においてロドスは中立を守るという和平協定が成立した。この協定はアンティゴノス側に有利なものであった。
 
ディアドコイ中最大の勢力を誇るアンティゴノスを警戒した他のディアドコイは対アンティゴノス同盟を結び、アンティゴノスと戦い、[[紀元前301年]]に[[フリュギア]]のイプソスにてアンティゴノスと[[セレウコス1世]]・[[リュシマコス]]連合軍が矛を交えた([[イプソスの戦い]])。その時、右翼を率いていたデメトリオスは背走する敵を深追いし過ぎたため、孤立したアンティゴノスの本隊が危機に陥った時に救援に回ることができず、アンティゴノスを敗死させてしまった。その後、アンティゴノスの遺領は他のディアドコイによって分割された。