「細川ガラシャ」の版間の差分

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ガラシャの死の数時間後、神父[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]]は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ<!--(彼女との間に生まれた息子達を冷遇していた事から素振りだった可能性もある)-->、慶長6年([[1601年]])にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の[[崇禅寺 (大阪市)|崇禅寺]]へ改葬した。他にも、京都[[大徳寺]]塔中[[高桐院]]や、肥後熊本の[[泰勝寺]]等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。
 
なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で[[前田利家]]の娘・[[春香院|千世]]もいたが、千世は姉・[[豪姫]]の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を[[勘当]]・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が[[大の陣]]で豊臣側に与する原因となった。
 
ガラシャが死を選んだことによる他家への影響は非常に大きく、西軍に味方するものが減り、東軍に恭順するものを増やした原因となっている。