「海汀倉の戦い」の版間の差分

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== 戦闘 ==
咸鏡北道兵使韓克諴は日本軍の前進を聞き、これを迎撃するため北境六鎮([[慶興]]、[[慶源]]、[[会寧市|会寧]]、[[鍾城]]、[[鏡城]]、[[富寧郡|富寧]])の兵を結集し、鏡城を発して南下する。もとより勇敢なことで知られた咸鏡北道の兵は、前進して摩天嶺の天険に拠ろうとしたが、加藤清正軍が先に摩天嶺を越えて進撃しており、両者は7月17日(明暦18日)未明、海汀倉(当時日本軍はこれを蔵所又は蔵床と称していた。蓋し今の[[城津]])において遭遇する。朝鮮軍が騎兵を以て日本軍に迫ると、日本軍は銃撃で応じ富寧府使元喜以下300余人を戦死させた。韓克諴は敗れて山上に退き、翌日を待って再び攻撃しようとしていた。日本軍は夜半より密かに朝鮮軍に近づき暁霧に乗じ喊声を発して攻撃する。韓克諴は大いに敗れ死傷者を残して北に逃れ鏡城に帰った。
 
== 影響 ==