「南部信直」の版間の差分

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天正14年([[1586年]])(天正16年([[1588年]])説もある)、[[斯波氏#高水寺斯波氏|高水寺斯波氏]]の当主・[[斯波詮直]]を滅ぼして勢力を拡大した。
 
天正15年([[1587年]])、北信愛を名代にして[[加賀国]]の[[前田利家]]に対し、[[豊臣政権]]に臣従する意思を示した<ref name="戦国人名事典590"/>。
 
天正18年([[1590年]])1月津軽へ兵を進める。大浦為信は密に上洛するため既に津軽を離れていたと思われるが、大浦側の抵抗が固くまた真冬でもあり南部軍は苦戦を強いられ、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。八戸政栄に三戸城代を委ね、政栄の子・[[八戸直栄]]を随伴し兵1,000を率いて、同年4月[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣、そのまま従軍し[[奥州仕置]]の軍を進める秀吉から[[宇都宮市|宇都宮]]において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡([[糠部郡]]、[[閉伊郡]]、[[鹿角郡]]、[[久慈郡]]、[[岩手郡]]、[[紫波郡]]、そして[[遠野]][[保]]か?)についての覚書の朱印状を得る<ref>[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1454.pdf 天正20年(1500)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵)] なお糠部郡は寛永11年([[1634年]])に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された</ref>。